■日本女子プロゴルフ界を牽引してきた宮里

宮里はアマチュア時代の2001年から2003年に3年連続で「サントリーレディスオープン」のベストアマを獲得。その実績を評価され、2003年10月のプロ転向直後にサントリーと所属契約を結んだ。そしてプロ転向2年目の2004年には年間5勝を挙げ、賞金ランキング2位に躍進した。

2019年の渋野もプロ入り2年目で国内4勝、海外1勝の年間5勝を挙げ、賞金ランキング2位。時代が違うので単純に比較することはできないが、当時の“藍ちゃんフィーバー”と昨年の“しぶこフィーバー”は似た雰囲気があった。

宮里は翌2005年も「日本女子オープン」を含む年間6勝を挙げ、賞金女王になる可能性もあったが、米女子ツアーの予選会を優先して最終戦の「LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ」を欠場。賞金ランキングは2年連続で2位だった。米女子ツアーの予選会ではトップ通過を果たし、2006年からは活動の拠点を米国に移すことになった。

米女子ツアー参戦初年度の2006年は、序盤こそ波に乗れなかったが、春先から調子が上向き、53万2053ドルを獲得。賞金ランキング22位だった。目標としていた米女子ツアー初優勝には手が届かなかったものの、21試合中7試合でトップテンフィニッシュを果たした。

また、日本国内で7試合に出場し、「日本女子プロゴルフ選手権大会コニカミノルタ杯」と「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメント」で2勝。それ以外の5試合もすべてトップテンフィニッシュで、米女子ツアーでの成長を示した。

ところが、2007年以降は苦しい時間を過ごした。正確性が持ち味だったドライバーショットが不調に陥り、2007年と2008年は米女子ツアーでも日本国内でも未勝利に終わった。

その宮里が劇的な復活を遂げたのが2009年だった。序盤からコンスタントにトップテン入りを果たすと、7月の「エビアンマスターズ」では首位と1打差の通算11アンダー4位タイで最終日を迎え、3アンダー69とスコアを伸ばした。通算14アンダーで並んだソフィー・グスタフソンとのプレーオフに突入。プレーオフ1ホール目でバーディを奪い、ついに米女子ツアー初優勝を手にした。

この勝利で勢いを得て、宮里が快進撃を繰り広げたのは2010年。開幕戦の「ホンダPTT LPGA タイランド」で米女子ツアー2勝目を挙げると、翌週の「HSBC女子チャンピオンズ」で2週連続優勝。4月の「トレスマリアス選手権」、6月の「ショップライトLPGAクラシック」、8月の「セーフウェイクラシック」でも勝利を積み重ね、年間5勝を挙げた。2010年6月には世界ランキング1位に躍り出た。

この活躍を日本で見ていたのが渋野に代表される1998年度生まれの“黄金世代”だ。彼女たちが10歳から12歳の間に宮里が米女子ツアーで6勝を挙げ、ああいう選手になりたいと切磋琢磨した結果、賞金ランキング50位以内に11人もの同世代の選手が並ぶ一大勢力となった。

■描くセカンドキャリアは

しかし、もしかしたら宮里自身は2010年から自らの引退について考え始めていたかもしれない。なぜならば、ツアーメンバーの先輩であるロレーナ・オチョアが2010年4月に28歳で電撃引退を発表したからだ。

オチョアは2003年にツアーデビューし、2004年5月の「フランクリン・アメリカ・モートゲージ選手権」で初優勝。宮里がツアーデビューした2006年には年間6勝を挙げ、賞金女王に輝いた。2007年には世界ランキング1位となり、2009年までにツアー通算27勝を積み上げた。
しかし、2009年12月にメキシコの航空会社の幹部役員との結婚を発表すると、2010年4月に家族との時間を優先するため引退を決断した。

1981年11月15日生まれのオチョアは1985年6月19日生まれの宮里よりも4歳年上だったが、ツアープレーヤーとして絶頂期を過ごしていただけに、その決断は衝撃的だった。
ただ、オチョアはツアープレーヤーを引退しただけで、プロゴルファーを引退したわけではない。ツアーの第一線から退いた後も子どもたちの健康や教育にかかわる慈善活動に力を注いでいる。

その姿を見てきた宮里も、2017年の現役引退後は同じような道のりを歩もうとしているように感じる。宮里は2018年から所属先のサントリーが主催する「サントリーレディスオープン」の大会アンバサダーに就任した。

そして2019年9月には自らの名を冠したジュニア大会「宮里藍インビテーショナル supported by SUNTORY」を開催した。

この大会に対する思いを語る特別番組が2月29日にCSのテレ朝チャンネル2で放送予定だが、番組内容には「現代の“技術編重”“メンタル軽視”の育成方法に対し、まったく違う考えを抱く宮里藍。自らをスランプから救った“VISION54”を駆使し、『技術のみならず人間力を重視し、根底から育てていく』という宮里藍の構想が始動する」と記されている。
米女子ツアーを拠点に活動していた宮里からすると、海の向こうから見ていた日本のゴルフ界に対して、いろんな思いがあるに違いない。

ツアープレーヤーとしての宮里は、国内14勝(アマチュア優勝を除く)、海外9勝を挙げた。生涯獲得賞金は国内4億1807万2622円、海外830万2365ドルだ。

だが、ツアーでの露出がなくなっても、宮里のオフィシャルウェブサイトにはサントリーをはじめ、日本航空、久光製薬、ブリヂストンゴルフ、ホンダ、オークリーのバナーが並んでいる。彼女のセカンドライフを応援する企業はたくさんある。

日米のツアーで果敢な挑戦を続けてきた宮里が、セカンドキャリアでも独自の取り組みに挑み、開拓者になってくれることを期待したい。


保井友秀

1974年生まれ。出版社勤務、ゴルフ雑誌編集部勤務を経て、2015年にフリーランスとして活動を始める。2015年から2018年までPGAツアー日本語版サイトの原稿執筆および編集を担当。その他、ゴルフ雑誌や経済誌などで連載記事を執筆している。