人さし指と中指を交差させてみる。
「それが両足だと考えてみてもらえれば。それが白井選手の演技です。本当はその2本はそろってないといけない」。ある審判は、そう示した。

 13年世界選手権、誰もが舌を巻いた高校生での世界デビューから代名詞は跳躍だった。抜きんでた白井だけに許されたひねりの世界はしかし、いつしか体操界での存在感を失っていった。なぜか。

 その理由の1つが「交差」にあった。床運動がわかりやすい。タンブリングの際に高く跳び上がり、前方、後方、そしてひねりと体を複合的に回転させていく時に、着目すべきはその脚。真っすぐそろって伸びるのではなく、絡む。足の先が交差しているので、そのスピードも相まって小型の扇風機のようにも見える。上半身も含めた回転速度の速さに目を奪われているので、なかなかその脚のありようまで目がいかないが、スロー映像などでは顕著にその傾向が確認できる。

 そして、着地でも乱れがあった。踵をそろえてぴたっと正面を向いて止まるのではなく、時には回転不足で斜めに。さらに、その足も横にそろうのではなく、前後にずれていることも多々。

 これが白井のアキレス腱だった。

 体操の得点は技の難度を示すDスコアと、演技の出来栄えを示すEスコアの合計で決まる。Dスコアは加点式、Eスコアは10点からの減点式を採る。後者で求められるのは「美しさ」。その条件の1つが脚の付け根から足先までがぴたっとそろっていること。内村の試技をスロー映像で見れば、その体現者としてのお手本が分かる。翻り、この理想に反すれば減点となる。

 ルールブックでは例えば、「腕、脚をまげる、開く」ことが美しさを損なう要素とされる。着地では「踵をそろえる」ことが理想で、足が並んでいないことや、肩幅以上に足が開いていることなどがマイナスになる。ともに0・1~0・5点の減点を課せられる。つまり、白井の床運動は跳ぶ度に減点が増えていく。技の難しさで抜きんでたDスコアを獲得しても、Eスコアで大きく引かれる。それが常になっていた。

 では、なぜリオオリンピックまでは、それでも活躍できたのか。端的に言えば、Eスコアのルールブックに則った厳格な採点がおざなりにされてきたからとなる。

 採点競技の常だが、技と出来栄えは常に天秤にかけられる。競技の天井を押し上げる先駆者の登場は、技術に重きを置かせるが、やがてそれが偏重とされ、出来栄えの評価に重りが乗る。そしてつり合ったところから、再び技術が押し上げられ…。そのサイクルで競技性自体は高まっていく。

 リオ後の体操界は、出来栄えに重りを置くことでバランスを保つという大きな流れの中にあった。ルールブックに書かれている基本をもう一度見つめ直す、厳格に適応していく。それまでは高度な技の影で正確に採点をされていなかった減点要素が、見逃されなくなった。それは近い将来に国際体操連盟がAI採点へ舵を切るという方針にも影響されていたのだろう。人の目による「感覚」から、AIによる「分析」へという流れを作る上で、人の感覚は排除要素だった。AIに移行した際に、突然Eスコアの得点が大幅減となれば、それまでの採点が疑いの目を向けられる。そのためにも東京オリンピック、その先へと採点方式は変わった、というより基本に戻された。

 この流れが白井を襲った。そして、その流れへの対処を誤った。先の引退会見でたびたび口にしたのが「プライド」「白井健三の体操」という言葉。これが、判断を誤らせたように思う。

 持ち味はもちろんひねりであり、超高難度の跳躍技で間違いない。ただ、採点傾向の変化から減点対象になるような乱れも露呈してしまうことは、本人が気づいていたはずだ。17年世界選手権では以前のようなEスコアを獲得することはできず、個人総合で3位という結果とは裏腹に、見詰めるべき現実は厳しくなっていく未来は明白だった。

 ここで邪魔したのが「プライド」だったのではないか。白井自身も、引退試合となった6月の全日本種目別選手権では「昔の自分が邪魔だった」と現在の境地を語ったが、この17年当時はこのような客観的な視点を欠いていたと思える。

 向かったのは細かい減点を減らす方向ではなかった。床運動、跳馬のスペシャリストから6種目のオールラウンダーへの進化を求めた時期にも重なっていたが、例えば足先への注意などの基礎から取り組むという姿勢ではなかった。

 そのプライドの「暴走」とも言えたのが19年全日本選手権だった。床運動の得点に対して、報道陣の前で不満を隠さなかった。

「意味がわからないですね、ゆかがあの点になる意味が。自分で分かってないですし、いろんな先生方にもっと話を聞かないと。体操人生で一番着地が止まったゆかだと思ったんですよ。だけど(Eスコアが)8・2しかでない」

「ちょっと見返したかなと思ったら空振りですよね、そんな点しかでないのかと。でも全員に厳しい点が出ているわけではなくて、出ている選手には出ているので、そこと何が違うのかが自分の中で分かっていない。分からないことがストレス。とにかく出ている人と自分との差は何かということを知らないと始まらない」

 審判へのあからさまないら立ちは、平素の明るい取材対応の姿とは一線を画していた。直前の2月に足をケガしていたことも拍車を掛けたのかも知れない。着地に関しては改善を進め、本人の中では手応え十分の出来だったが、映像で見返せば熟練の審判でなくても、足の交差は明らかで、「分からない」という言葉がどこか事実を反しているように感じられた。

 白井ほどの選手なら映像を見返せば、乱れは明らかだろう。それを分からないといってしまえた自負心の暴れ方は、いまだから「邪魔」と言える「昔の自分」への呪縛があったと想像させてしまう。

 引退会見に同席した日体大の畠田好章コーチは、出会った頃の白井の印象をこう述べた。

「出会ったのが子どもの頃。鶴見ジュニアの体育館に自分の娘を連れて行っている時ですね。すごくひねっているなと、トランポリンで。しばらくしてから日体大の体育館で、ジュニアで、(他のコーチが)指導しているのを見ている中で、好きなことしかしない、苦手種目から逃げているなと。それが結構見えました。でも試合では苦手種目もこなして、良い結果を出す。この子はそういう能力はすごくある」

 卓越した跳躍術への没頭は、小さい頃から高いプライドを育んだだろう。一流に必須の要件であるが、時にはそれが障害になることも、特にキャリアを積んだ選手の常道でもある。

 畠田コーチは、その上で続けた。「それが大学に来る前から、種目別ですけど、世界一になって入ってくることできた。それで、ゆかで金メダルを取れれば満足という感覚で、そこで終わっている選手ならゆかだけで終わっている。今度はゆかで点を取って、オールラウンダーになりたいと。目標が出たのでは。大学に入る前からやるべき事を考えて入ってこられる。こういう選手は正直いないです」。オールラウンダーになる上で、逃げていた苦手種目への向き合い方を変えた。ただ、同時に「乱れ」の事実にはなかなか向き合えなかったのではないか。

 新型コロナウイルスで東京オリンピックが1年延期になり、その中での心境の変化があったという。引退を決めたのは昨年の自粛期間が明けた頃。

「正直、今年の選考に入るところからオリンピック代表は考えてなくて、1回行ったことあるがゆえに難しさもわかっている。だからこそ、結果にこだわらずラストシーズンをやり切りたいと。シフトチェンジは良かった」

 順位や成績を追い求めずに競技に没頭することで、さまざまに縛られていたものから解放されたという。全日本種目別では大学入学後に基礎から練習してきた鉄棒で決勝進出、床運動では優勝。

「そういう意味では昔からあるプライドと、大学からの成長が同じ舞台で示せたのは、自分の体操人生の凝縮された1日だった。引退試合はできるようにできているのかなと実感した1日でした」

 そうまとめた。ただ、Eスコアは19年全日本選手権で憤った時と同じ8・2点。採点の厳格化に対処できたとは言えなかった。

 ある指導者は「細かい部分、特に足が交差してしまうような基本的なクセを直すには3,4年かかる。それでも少ずつ改善できていければ、また違った体操を見せることもできたのではないか」と見た。確かに、リオオリンピックで補欠だった萱和磨は、自分の演技の弱点である足先の「汚さ」を丁寧に見なすことで、今回オリンピック代表の座をつかんだ。それはまさに数年がかりの、地道な努力の結晶だっただろう。

 白井も努力を怠ることはなかっただろう。惜しむらくは「プライド」が邪魔をする前に、変化に敏感に反応し、自省し、新たな「白井健三らしさ」を追求していくことだったのではないか。それは単なるオールラウンダーになるという目標以上に、跳ねる姿を輝かせたはずだから。


VictorySportsNews編集部