白鵬や貴乃花も脱帽

 大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、白鵬…。名前を並べただけでも豪華なメンバーがそろう最高位。中でも最も強いといえば、〝不世出〟という形容詞で言い伝えられる第35代の双葉山を挙げることができる。まだ年2場所制だった1936年から1939年にかけて69連勝をマークした。約3年も負けなしの状態で、記録は今も破られておらず「不滅」と称される。

 身長179㌢、体重128㌔と現代力士と比べたら体格面で劣るが、相撲が単なる力比べではないのは明白なところ。少年時代から父親の仕事の手伝いで日々、船に乗っていた影響で強靱な足腰やバランス感覚が養われた。さらには小学校に入る前、けがのアクシデントで右目の視力をほとんど失った。引退後まで明かさなかったハンディキャップだ。それを逆手に取って鍛錬し、常人では到達しない境地に至った。生前の著書に「目で見ず、体で見、体で見ず、心でみるというぐあいで、私の相撲の技術を熟させてくれた。つまり逆説的な表現をすれば、右眼が悪かったから、私の相撲が強くなれたということになりそうである」(「私の履歴書」)と説明していた。

 優勝回数は、大鵬に抜かれるまで最多の12回で、うち全勝が8回。双葉山がけん引した空前の相撲人気が波及し、1場所の開催日数が11日から13日、さらには15日まで延ばされる事態に至った。歴代最多となる優勝45回の宮城野親方(元白鵬)はかつて「双葉関が年6場所制の今に生きていたら、一体何回優勝するんだろうね」と畏敬の念。貴乃花光司氏も日本相撲協会在籍中、映像で目にした双葉山について「やはり別格だと思う。風格とかそういうものは映像を見ただけで分かる。記録以上のすごさがある」と脱帽していた。

相撲力の秘けつは…

 抜群の強さに対し、主流派の出羽海一門は総出で打倒を掲げ、策を練り続けた。それでも双葉山はことごとくはね返してきた。比類なき実績を支えたのは超絶な技巧だった。得意は右四つで左上手をつかんで万全。横綱らしく、向かってくる相手をしっかりと受け止め、いつの間にか自分の得意の形になる「後の先(ごのせん)」の極意を会得していた。

 腕相撲は弱い方だったというのに、相撲を取る際に体全体から湧き出てくるパワー、いわゆる「相撲力(すもうぢから)」は強力だった。一体どこから生み出されてきたのか?ヒントの一つになる興味深い分析がある。元三段目一ノ矢で、四股を通しての健康づくりや相撲の物理的な探究をしている松田哲博氏は、双葉山の映像を繰り返し見た結果、肩甲骨や骨盤が今の力士の何倍も小刻みに動いていたことを発見したと論文で記した。「常に腕と肩甲骨をつなげ、腰と脚をつなげ、最少の動きで最大の力を発揮する構えを保って相撲を取っていた」(月刊「武道」より)と結論づけた。また、肩甲骨を使って相手の体を挟み付け、動きを封じていたとも指摘した。

 双葉山が瞬く間に躍進したきっかけは、角界のピンチの状況と関係がある。1932年に、待遇改善を訴えた力士たちが東京・大井の中華料理店に立てこもる「春秋園事件」が起き、大量離脱して別団体をつくった。何人もの関取が抜けたことにより番付を穴埋めするために、当時十両になって間もない双葉山は一気に前頭4枚目まで上がった。その後は一度も十両に転落することなく番付を上昇させた。横綱、大関陣が1人ずつしかいない現在は、ある意味で危機的な状態でもある。双葉山のごとく、時流にも乗って一気呵成に出世街道を走り抜ける救世主の出現が待望される。 

ザ・お相撲さん

 大関に目を向けると、優勝5度を誇る魁皇(現浅香山親方)を最強に挙げたい。身長185㌢、体重170㌔余りの堂々たる体格。片手でリンゴを軽く握りつぶしたり、開栓前のビールが詰まったケースを片手で二つ抱えたりと、規格外の怪力で知られる。得意は双葉山とは反対の左四つで、右上手をつかんでの寄りや投げが得意。ファンにもおなじみで、魁皇が右上手をつかむと館内が沸いた。〝必殺技〟で客を喜ばせる点は興行面にも大きく寄与し、まさにプロフェッショナルらしさが漂っていた。同期入門の貴乃花、3代目若乃花、曙らとしのぎを削って堂々と真っ向勝負を貫き、巨漢の武蔵丸らを含めて次々と右上手投げで仕留めるなど土俵を彩った。

 栃乃洋(現竹縄親方)との対戦で象徴的な場面があった。立ち合いでかち上げて素早く右上手をつかむと、投げで瞬殺。この光景に、テレビ解説をしていた北の富士勝昭氏(元横綱)が思わず「めちゃくちゃ強いね」とつぶやいたほどだった。大関在位65場所は史上1位タイで、通算1047勝、幕内879勝はともに、白鵬に抜かれるまで歴代最多だった。

 福岡県直方市出身で、地元では特急列車「かいおう」が走っている。土俵上で豪快に勝った後でも表情を変えるでもなく、ましてやパフォーマンス的な動きをするでもなく、あくまで淡々と勝ち名乗りを受けた。「粋」を地でいき、土俵を離れると温厚な人柄。「気は優しくて力持ち」という、人々が抱く理想の力士像そのものだった。衛星放送で相撲中継を観戦していたモンゴル国民の心をも鷲づかみにし、2008年のモンゴル巡業では同国出身の朝青龍に匹敵する大歓声を浴びた逸話もある。中卒たたき上げから築いた輝かしい経歴。学生相撲出身者が増えた現在ではなかなかお目にかかれない、お相撲さんらしいお相撲さんだった。


VictorySportsNews編集部