文=村上晃一

移転? 保存? 情報が錯綜する秩父宮

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 日本ラグビーの聖地といえば、「秩父宮ラグビー場」(東京都港区北青山)と「花園ラグビー場」(大阪府東大阪市)である。実は日本国内に「ラグビー場」はそう多くない。トップリーグなどメジャーな試合が行われ、1万人以上の収容人数があるのは、秩父宮、花園以外では名古屋市の「パロマ瑞穂ラグビー場」、埼玉県熊谷市の「熊谷ラグビー場」のみだ。なかでも秩父宮と花園では数々の名勝負が繰り広げられ、ラグビーファンが「感動」を共有してきた大切な場所だ。

 秩父宮ラグビー場の敷地内には、公益財団法人日本ラグビーフットボール協会、関東ラグビーフットボール協会の事務所があり、まさに日本ラグビーの総本山。その聖地が2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに取り壊され、開催期間中は駐車場になるという。そんな衝撃ニュースが出たのは2015年4月のことだ。しかも、計画では隣の神宮球場と場所を入れ替え、2025年度までに建て替えられるという。場所も建物も変わってしまう上、取り壊しから5年間、ラグビーは聖地を失うことになる。

 ただし、その後具体的な進捗状況は明らかにされていない。2018年には解体を始めるという情報もあったが、2019年9月~10月に開催されるラグビーワールドカップ2019が終了するまでは残されることが決まっている。ラグビー関係者の中には今の場所で残そうとする動きもあるようで、今後の動向は予断を許さない。新国立競技場や築地市場問題での国や東京都の対応を見ていると、秩父宮ラグビー場問題も何が起こっても不思議ではない。

改築中も高校ラガーマンの夢を守る花園

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 一方、高校ラグビーの聖地として名高い花園ラグビー場は、ラグビーワールドカップ2019の会場に選ばれ、2017年2月から本格的に改修に入る。国際大会開催の基準を満たすため、照明設備や大型スクリーンの設置、ベンチ席を個別席へ変更するなどの改修が必要なのだ。現在、電光掲示板の場所にスタンドは無いが、新たなスタンドを建設し、その上に大型スクリーンが乗る形になる。

 工費は約72億6000万円。そのうち約29億2000万円は国の交付金などで賄い、市の負担は41億円を限度とし、約2億4000万円は企業や市民の寄付で補う予定。2018年9月の完成予定だが、2017年度の全国高校大会も花園で開催されることが決まっている。工事中はトップリーグ、大学の試合には貸し出さず、高校大会の期間だけ限定的に使用される。改修中のスタンド、スコアボードなどは仮設で対応し、高校ラガーマンの夢を守る。

 花園ラグビー場は、日本初のラグビー専用スタジアムとして1929年に開場以来、近畿日本鉄道が所有していたが、2015年からは東大阪市が所有している。ラグビーの街をうたう同市は、花園ラグビー場を街のシンボルとして今後も活用していく意向で、ワールドカップ以降はいつ行っても楽しめるスタジアムになる可能性が高い。

 夢が広がる花園と比較して不透明な秩父宮を心配する声は大きい。それは秩父宮がラグビー関係者にとって大切なスタジアムだからだ。

 話は第二次世界大戦後の昭和22年にさかのぼる。戦前に専用グラウンドとして使用していた神宮競技場(現在の国立競技場跡)が米軍に接収されたため、関東ラグビー協会は新たな専用ラグビー場を建築すべく候補地を捜した。そして見つかったのが、当時の女子学習院の焼け跡だった。各大学のラグビー部OBから募った浄財と勤労奉仕によって、昭和22年11月、「東京ラグビー場」が完成する。関東協会の香山蕃理事長は、当時、毎日新聞連載の「スポーツ十話」の中で次のように語っている。

「あるものは時計やカメラ、またあるものは家のじゅうたんを売ってひたぶるに自分達の心のふるさとを築きあげようという情熱に燃えた。工事が始まったある日、雨のふるなか秩父宮様がこられご病身をかえり見ずゴム長靴をはかれてはげまし下され、鹿島建設の関係者に『ラグビー協会は貧乏だからよろしくたのむ』と頭を下げられた。私は、流れる涙をこらえることが出来なかった」

 昭和28年、東京ラグビー場は、日本ラグビー協会の総裁でもあった秩父宮殿下のご遺徳を偲び「秩父宮ラグビー場」と改称された。その後、土地の主管が大蔵省に移ったことで借地料が増え、協会が支払うべき借地料が滞ってしまう。文部省と相談の末、ラグビー競技の優先を条件に国立移管となり今に至っている。先人の苦労を知るラグビー関係者が、解体のニュースにショックを受けるのは無理もないのだ。

『近代ラグビー百年』(ベースボール・マガジン社刊)によれば、昭和3年、秩父宮殿下が奈良県の橿原神宮に参拝されたことがあった。そのとき、現在の近畿日本鉄道(大軌電車)に乗車され、案内をしていた大軌の種田(おいだ)専務に「沿線にずいぶん空き地があるね、いまさかんになってきたラグビーの専用スタジアムを作ったら、乗客も増えて会社の利益もあがるよ」と話された。この言葉を契機に建設が決まったのが花園ラグビー場だ。日本の皇室とラグビー場には密接な関係があり、それぞれの場所には積み重ねられた歴史がある。ラガーマンたちが「心のふるさと」としたラグビー場があったから、日本ラグビーは存続してきた。

 未来のラグビー場を考えるとき、そのことを忘れないでいてほしい。


村上晃一

1965年、京都府生まれ。10歳からラグビーを始め、現役時代のポジションはCTB/FB。大阪体育大時代には86年度西日本学生代表として東西対抗に出場。87年にベースボール・マガジン社入社、『ラグビーマガジン』編集部勤務。90年より97年まで同誌編集長。98年に独立。『ラグビーマガジン』、『Sports Graphic Number』などにラグビーについて寄稿。