文=後藤勝

残り4カ月に区切られた現役生活

©Getty Images

石川直宏が、時の人になった。

8月2日朝8時20分頃、Twitter上で今シーズン限りでの現役引退を表明。詳細を「石川直宏オフィシャルWEBサイト」にて『ご報告』の題名で記載した。誰が読んでも石川自身の言葉で書いたとわかる文体。その生々しい文章には、傷めた左ひざがなかなか快復しない状況で「残りのシーズンを今まで以上に強い覚悟と責任、誇りをもって出し尽くしたい想いが強くなった」との一節があった。復帰の可能性を少しでも高め、数少ないはずの機会で高いパフォーマンスを発揮するため、そしてチームに刺激を与えるために、あえて残された時間を区切ったのだろう。

Twitterに引退表明が投稿された直後はリツイートといいね数が22だったが、1分も経たないうちに68となり、瞬く間に4桁へと達した。最終的にいいね数は5桁になった。

9時30分からの午前練習は別メニュー。ウオーキングのためにわずかな時間、コートに出た以外は室内で調整した。表情はいつもと変わらない。平常心だった。予定されていた二部練習の午後の部はピックアップ選手のみの参加となり、開始時刻も早められた。石川は午後の練習には加わらず、引退発表記者会見に備える。トップチームの大半の選手は帰宅した。

しかしコーチ陣が指定した若手のほかに、自ら志願して参加した年かさの選手もいた。そのうちのひとり、石川と同世代の大久保嘉人は、この発表になんとも言えない感じだった。

「同世代やしね。引退の決断は誰にも訪れることだし。おつかれでしたよね。ちっちゃいときからサッカーしていて、プロになって、というすばらしい経験をして。次に何をするかわかりませんけど、その経験が必ず生きてくるだろうし。この先もがんばってほしい。でも今年はやるんだよね? リハビリも、1分でもちょっとでも出ようという気持ちでやっていると思うし、早く復活して、最後、試合に出て、みんなで“おつかれさま”って言えたらいいんじゃないですか」

クラブのエンブレムを背に行なわれた記者会見

©Getty Images

さかのぼること一日前、8月1日。石川は世間への発表に先駆け、チームメイトに引退の意思を伝えた。石川によれば、大久保は前田遼一とともに、平静を装っていたという。

「(大久保と前田は)かけづらそうでしたね、声。何度か(今季限りの引退を)伝えるタイミングはあったんですけど、まだシーズン中だったし、彼らには彼らの立場があって。話すことは多くあるんですけど、今回の引退のことに関してはぼくからは言葉にしなかったし、ここ(小平グランドのミーティングルーム)で選手に伝えさせてもらったミーティングのときに、彼らは同時に知ったんです。そのあとどういう感じの表情をするか、たぶんいろんな感情はあったと思うけど、もう次に向けて進んでいる表情をしていた。振り返るのはやっぱりまだ先かな、と。3人で試合に出たいです。お互いライバルですし。あとでゆっくり話ができたらなと思います」

17時からの記者会見に、石川はブレザーを着用して出席した。映像が生配信されることもあってか、やや緊張した面持ちだった。

そんな石川の胸中を知ってか、まず大金直樹・代表取締役社長が路を拓くべくマイクを握る。

「クラブとしてもまだ成し遂げていない目標があるなかで、石川選手が引退することを受け容れるのは非常に厳しい判断でした。しかし、昨年から続いている怪我、膝の状況、そして彼の決意を受け、前向きに現役引退を受け容れようと考えました」

石川のテーブルはFC東京のフラッグが隙をつくらないようにきちんと垂れ下がり、濃い青赤がカメラマンの視野を占めるようにしつらえられていた。各種の引退発表記者会見を研究した広報スタッフによる心づくしだった。

通常の会見なら、選手はスポンサーの看板を背にする。しかし引退発表の記者会見だ。これまで東京の象徴として骨身を削って働いてくれた石川には、クラブのエンブレムを背にしてその場に臨んでもらいたい。そしてテーブルも、彼が命を注いで磨き上げようとした青赤に充たしてあげたい。周到な準備とともに、地味だが効果的なファインプレーだった。

この卓上で、石川がじっくりと言葉を発し始めた。

引退発表の日に8月2日を選んだ理由

©Getty Images

「6月の末に、自分の想いを社長に伝えました。2015年の8月から約2年間リハビリの時期が続き、なかなか(プレーで)貢献できないもどかしさを抱えながら、言葉として伝えられるものを積み重ねてきました。そのなかで、残るシーズンの最後までできることをしながら、サポーターのみなさんが喜ぶ姿を見たい。そういう想いで決断にいたりました」

ボールを蹴って走ることができない。そのぶん、言葉を尽くす。広報ともサーファーとも呼ばれたが、石川は言葉の持つ伝える力を極めた。

今シーズンの折り返し地点に達したとき、低迷するトップチームは痛烈な批判に包まれていた。一体感を得るには程遠い。そんな7月8日の味の素スタジアムで、東京は鹿島アントラーズを迎えた。相対的に能力で劣る上、ファンの心を掴んでいないチームが勝てるような相手ではなかった。その勝率が限りなく低い試合がキックオフを迎える寸前、石川はゴール裏の前でトラメガを握った。引退を心に秘めつつ、ファンと選手がともに戦おうと呼びかけるためだった。

会見の場で「ファンとは何か」と問われた石川は次のように答えた。

「なかなか言葉に直しづらい。先日、鹿島戦で自分は選手、スタッフ、サポーターをひとつにしたいと行動に出ました。その場で受けたエネルギーが自分の元気の源で、クラブの、チームの源で。反対に、自分たちは自分たちで、応援してくれる人たちの生きる力の源になっている。あの場にいればきっとそういう雰囲気を感じてもらえると思う。そこに言葉はいらないし、自分はそう感じながらプレーしてきました。いつもいて当たり前になっている存在であり、指摘を受けながらともに成長し、歩んでいける関係だと思います」

サッカー界を代表する防波堤として、サッカーファンに対する心無い暴言を諌めた石川らしい成熟した思考に、報道陣は感嘆するばかりだった。

件の鹿島戦からひと月も経たないうちに引退発表の日を迎えた。この日を8月2日とした理由はふたつあった。

「きょうは自分にとって意味のある日です。2年前、2015年の8月2日に、フランクフルトでの親善試合でけがをして、それからリハビリがスタートした。その日を次の一歩を踏み出せたという日にしたかった。もうひとつは、妻の誕生日が今日だということ。その日に引退会見というのもどうだと思いましたけど、それもまた忘れられない日になるかなと。まあ、帰ってケーキ食べますけど(笑)。お祝いではないですが、すべてをひっくるめて善い日に変えたいという思いで、今日になりました」

8・2。その一日にかける想いは強いが、悲壮感はない。

帰宅した石川は夫人の誕生日を祝うべくケーキを食しただろうか? その晩、石川のTwitterアカウントは「嬉しいお知らせ!」と、第41回 日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会に於けるFC東京U-18の優勝を喜んでいた。トップに先んじて何度も日本一となっている弟分が、石川に打撃を与えた8月2日という日を「善き日」に変えた。

「起こる事すべて善きこと」。石川は己が念じるとおり、すべてをポジティブな結果に変えようと、顔を上げて歩みを止めない。

<了>

まもなく16歳の誕生日を迎える久保建英の現在地森本貴幸、久保裕也を育てた男の怪物ストライカー育成方法 試合後にFC東京ファンの前で泣き崩れた権田修一、涙の理由 レフェリーブリーフィングで示された使命感と誇り 15歳の選手に取材規制をかけるのは「過保護」なのか?

後藤勝

1993年頃から出版業界。1998年頃からサッカー関連の取材、執筆を始め、主に『サッカー批評』『スポーツナビ』などに寄稿。現在はWebマガジン『トーキョーワッショイ!プレミアム』でFC東京関連の記事を日々掲載している。著書に小説『エンダーズ・デッドリードライヴ』(カンゼン刊)など。