この快挙を祝福しながらも、人一倍に悔しがっていたスプリンターがいた。

「全く同じ状況なんですよね。引き立て役みたいになってしまって」

 山縣の後に10秒01で続いた多田修平(24=住友電工)である。その「全く同じ状況」とは、2017年9月9日をさしている。全日本インカレで当時東洋大4年だった桐生祥秀(25=日本生命)が日本人初の9秒台となる9秒98をマークした日だ。日本短距離界の長年の悲願が達成されたレースも、多田は一緒に走っていた。10秒07の2位だった。つまり、2度の日本新記録を一番近くで〝見た〟ことになる。得意の前半でリードするも、課題の後半で追い抜かれるという展開も同じ。桐生も、山縣も日本陸上史に新たな1ページを刻んだヒーローとして、まばゆいスポットライトを浴びた。自身も2度とも自己ベストだったが、完全に〝脇役〟の存在に回った。

「いつかは自分が前に立って、9秒台を出せるようにしたい」

 今度こそは自分が主役へ。その決意を新たにしていた。

 山縣との差は大きく開いていなかった。ゴールした直後には、こう思った。「あわよくば9秒台も出たかな。9秒99ぐらいは」。少し時間が立って、電光掲示板に表示された。タイムは「10秒01」。まだクリアできていなかった東京オリンピックの参加標準記録(10秒05)をクリアし、あの時から4年間更新できていなかった自己ベストだ。しかし、9秒台には届かず。嬉しさは少しだけで、目の前で「日本新記録」が生まれている状況は、悔しさを増幅させた。

日本新記録の裏でつかんだ、新しいイメージ

 多田の武器は圧倒的なスピードで飛び出す前半だ。号砲から首をもたげるように、目線は下を向く。大きな足音を残し、独特のフォームで鋭く飛び出していく。その前半の加速力は、世界でもトップクラスと言っていい。

 その反面、後半に力が残っておらず失速する。多田がずっと抱えている課題だ。細身の体が後ろに反ってしまい、足を前で回せなかった。

 前半の持ち味を生かしながら、後半にどう力を温存するか―。ずっと悩んでいた中で、布勢スプリントの決勝では新しい感覚をつかんでいた。周りのライバルを意識しすぎた事も失速の原因だったが、「自分のレーンだけを見て、体重を乗せるイメージで走ったら、落ちにくくなった」。また前半は「足を置くイメージ。体重移動をさせながら出ていくイメージ」。鋭さは失わず、体は「リラックス」できている。以前は強く地面を「蹴る」という意識が強く、その脱却を計っていた。日本新記録の裏で、その新しいイメージを、体で再現できるようになっていた。

 今季は好調を維持する。5月9日の東京オリンピックのテスト大会「READY STEADY TOKYO」では日本人トップの2位。タイムは10秒26だったが、19年世界陸上銀メダリストのジャスティン・ガトリン(米国)とは0秒02差に肉薄した。レース後は「スゴイネ、タダ」と褒めちぎられた。また5月16日に行われた関西実業団選手権男子100メートル決勝でも雨上がりで無風のコンディションの中、10秒19で圧勝していた。「試合を重ねていくたびに調子も上がっていく」というコメントも頼もしい。

誓った再出発。「諦めずにやってきてよかった」

 関西学院大3年次の2017年に追い風4・5メートルながら、9秒94をマークするなど一躍注目を浴びた。そのまま勢いは続かず、翌年からは不調が続き、「試合に行きたくなかった」とこぼした事もあった。もともとポジティブな性格だが、気持ちが自然と落ち込んだ。住友電工に入社し、佐藤真太郎コーチの指導を受けるようになって、再出発を誓っていた。不振を経験し、今は再び輝きを取り戻している。「挫折しそうな時期もあった。苦しい時期の方が多かったですけど、諦めずにやってきてよかった」。

 もう失った自信を取り戻している。東京オリンピックの参加標準記録を突破したことで、日本選手権で3位以内に入れば、代表に内定する。

「選手権はリベンジとして優勝して、オリンピックを勝ち取れるようにしていきたい。さらに後半を伸ばせるように」

 山縣、サニブラウン、桐生、小池、多田の5人が参加標準記録を突破済みの男子100メートル。まさに大激戦の”一発勝負 ”だ。これまで脇役に甘んじてきた男は、主役を奪い取るつもりでいる。その可能性は十分にありそうだ。


星野泉