その数十分前、筆者は久しぶりに彼とメッセージのやり取りをしていた。近況を尋ねるとともに今シーズン、日本球界でプレーする可能性を問うと、返ってきた答えがまさに「日本球界からは引退する」というものであった。

 誰かに伝えてしまったから公にしようと決めたのか、あるいはたまたま筆者が連絡を取ったのがその意思を固めたタイミングだったのか、それは分からない。いずれにしても、ツイッターで公表したことで「バレンティン、日本球界復帰を断念」はたちどころにいろいろな媒体で報じられるところとなった。

 彼が9年間プレーしたヤクルトは、これまでにも数多くの“優良外国人”を獲得してきたことで知られている。まだ球団がサンケイアトムズだった1960年代後半はルー・ジャクソンとデーブ・ロバーツ、1978年の初優勝時はチャーリー・マニエルとデーブ・ヒルトン。1989年にはラリー・パリッシュが外国人では球団初の本塁打王となり、1990年代の野村克也監督時代にはジャック・ハウエルや、阪神タイガースから移籍のトーマス・オマリー、投手ではテリー・ブロスなどが優勝、日本一に貢献した。

 若松勉監督の下で球団史上5度目の日本一に上りつめた2001年もロベルト・ペタジーニとアレックス・ラミレスの働きが光り、その後はケビン・ホッジス、セス・グライシンガー、林昌勇(イム・チャンヨン)、トニー・バーネットといった外国人投手の活躍が目につくようになった。

 ただし、実績という点においては、その中でもバレンティンがナンバーワンと言っていい。メジャーリーグでの実績はほとんどなかったものの来日後に花開き、ヤクルトで積み上げた通算288本塁打は池山隆寛(現ヤクルト二軍監督)の304本塁打に次いで球団歴代2位、通算763打点は同4位。在籍9年はヤクルトの外国人では最長記録である。

 本塁打王のタイトルは、来日1年目の2011年から3年連続で獲得。これはセ・リーグではほかに読売ジャイアンツの王貞治(13年連続、現ソフトバンク球団会長)しか成しえておらず、本塁打王3回もセでは王の15回、青田昇(巨人ほか)と山本浩二(広島)の4回に次ぐ3位タイとなっている。

 だが、何といっても歴史に残るのが、2013年に樹立したシーズン60本塁打の日本記録だ。1964年に王が打ち立てて以来、2001年タフィ・ローズ(近鉄)、2002年アレックス・カブレラ(西武)と並ぶ者はあっても塗り替える者はなく、“アンタッチャブル”とすら言われたシーズン55本塁打を、およそ半世紀ぶりに更新したのだ。

 この年は左足内転筋の肉離れで開幕から2週間ほど出遅れながらも、驚異的なペースでアーチを量産。小川淳司監督(当時、現GM)も「打てる範囲がほかのバッターと全然違う。高めだろうが低めだろうが、タイミングが合えば全部(スタンドまで)行っちゃいますからね」と舌を巻くほどだった。

 本塁打だけではない。打率.330(リーグ2位)、打点131(同2位)、出塁率.455(同1位)、長打率.779(同1位=日本記録)と軒並みハイレベルな数字を残し、最下位球団の選手としては史上初のリーグMVPにも選ばれた。

 その後も後述の2015年を除いて、コンスタントに活躍。2018年にはキャリアでも2番目の38本塁打を放ち、自身の持つ球団記録に並ぶ131打点で初の打点王を獲得した。しかし、来日9年目で8回目の30本超えとなる33本塁打をマークした2019年を最後に、ヤクルトを退団する。

ヤクルトを退団、ソフトバンクへ。常々口にしていた「優勝したい」という思い

 当時、バレンティンの去就はシーズン中から取りざたされていたが、日頃から“ヤクルト愛”を公言する一方で、彼が常々口にしていたのは「優勝したい」ということだった。その年、チームは来日以来、4度目の最下位。2015年にはリーグ優勝を経験したものの、自身は左大腿直筋の肉離れによる長期離脱があって、レギュラーシーズンではわずか15試合の出場で1本塁打。優勝の美酒は味わったが、貢献したという実感は薄かった。

 結果的に、翌2020年から2年総額10億円の大型契約を結んでソフトバンクでプレーすることになるのだが、「優勝したい」という思いが一番にあったのは間違いないと今でも思っている。実際、移籍1年目にソフトバンクはパ・リーグ制覇、そして日本一に輝いた。それでも、バレンティンの願いが見事に成就した……と言いづらいのは、彼自身は60試合の出場で打率.168、9本塁打と、まったくもって不本意な成績に終わったからだ。

 さらに移籍2年目の2021年は出場22試合で打率.182、4本塁打。6月13日に古巣ヤクルトとの交流戦でNPB通算300号本塁打と通算1000安打を達成したのが目立ったぐらいで、最後はシーズン終了を待たずにひっそりと日本を去ることとなった。

 日本国内で移籍する外国人というのは、それほど珍しくない。2011年から12年にかけては、シーズン途中での契約も含めると10人を超える外国人選手が国内でユニフォームを着替えた例もある。ただし、このバレンティンのように、必ずしも上手くいくとは限らない。最近では来日1年目の2017年に中日ドラゴンズで本塁打王となり、翌年は総額8億円の2年契約で巨人入りしたアレックス・ゲレーロも、新天地では期待どおりの働きができずに契約満了と共に日本を去っている。

 逆に国内移籍の“成功組”も少なくない。近年でいえばアルフレド・デスパイネ(ロッテ→ソフトバンク)やブランドン・レアード(日本ハム→ロッテ)、ロベルト・スアレス(ソフトバンク→阪神、今季からMLBパドレス)などがその部類に入る。

 NPBの歴史上、その筆頭格といえるのが、ヤクルト、巨人、横浜DeNAベイスターズの3球団で計13年プレーし、歴代の外国人ではいずれもトップの1744試合出場、2017安打、1272打点、同2位の380本塁打をマークした前出のラミレスだ。この間、首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回、MVP2回など数々の栄誉に輝き、現役引退後はDeNAの監督も務めた。

 そのラミレスにしても、現役時代の最後は寂しいものだった。2013年限りでDeNAを戦力外となり、2014年はBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスで打撃コーチ兼選手としてプレー。独立リーグからのNPB復帰を目論むもかなわず、シーズン途中で日本を離れてそのまま現役を引退した。

 だが、その翌年の4月3日、NPB時代最後の本拠地だった横浜スタジアムで行われたDeNA対ヤクルト戦で、ラミレスの引退セレモニーが開催される。どの球団でも「ラミちゃん」と愛された“助っ人”は、まずは日本語で「今までプレーできたのも、ファンの皆さんの応援のおかげです。本当にありがとうございます」とあいさつすると、在籍各球団に対する感謝の言葉も忘れなかった。

 バレンティンもまだソフトバンクに在籍していた昨年8月、「ファンのためにジングウ(神宮)で記念試合ができることを願います」とツイートしたことがあるが、その願いがかなう日は来るだろうか? ちなみに先の「日本球界からの引退」公表後、あらためて日本以外の国でプレーを続ける可能性を彼に訊いてみると、返事は「YES」。今のところ、昨年9月30日のウエスタン・リーグ最終戦で放った彼らしい一発を“ラストダンス”にするつもりはないようだ。


※文中の年俸額はすべて推定


菊田康彦

1966年、静岡県生まれ。地方公務員、英会話講師などを経てメジャーリーグ日本語公式サイトの編集に携わった後、ライターとして独立。雑誌、ウェブなどさまざまな媒体に寄稿し、2004~08年は「スカパー!MLBライブ」、2016〜17年は「スポナビライブMLB」でコメンテイターも務めた。プロ野球は2010年から東京ヤクルトスワローズを取材。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』、編集協力に『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』などがある。