日本一を目指す〈鈍足翔太〉

「ラグビーは特別好きだったわけではなく、一番になれるかもしれないと思ったから始めたんですよね」。子供の頃から、「何かの分野で一番になりたい」と思っていた後藤だが、身体が小さく、子供ながらに野球やサッカー、バスケットボールでは難しいとわかっていたという。
 
 嫌々ながら通わされていた水泳や英会話教室でモチベーションが上がるはずもなく、当然どちらも上達せず。そんな中、「周りにやっている子供が少ないから一番になれるかもしれない」と考え、小学校2年生のときに地元の〈大分ラグビースクール〉に入会し、ラグビーを始めた。
 
 当時の後藤は、コーチから「鈍足翔太」と呼ばれていたくらい残念な運動神経の持ち主だった。足も遅くタックルを成功させることも躱すことも全然できなかったという。そんな中、コーチからスクラムハーフのポジションを勧められ、後にこれが大きな転機となっていく。
 
 スクラムハーフは他のポジションと比べ、相手チームの選手との接触が少なく、味方へパスをだすことが求められるポジションだ。身体の小さい後藤は「パスは自分が触って自分で投げて完結する。上手くなるかどうかは自分の練習次第だ」と思ったという。
 
 ラグビーのパスは、足の速さや身体的な強さのような天性の素質に左右される絶対的なものではなく、自分が練習したら練習しただけ上手くなれる。日本一を目指す想いの強さは誰にも負けない鈍足翔太にとって、スクラムハーフは最適なポジションだったのだ。

〈量〉よりも〈質〉 〈質〉のために〈量〉

「練習しただけ上手くなれる」とはいえ、全員に与えられた時間は平等かつ有限だ。身体的に恵まれていなかった後藤は、周りの子供たち以上に〈質〉にこだわって練習に取り組む必要があった。
 
 当時はスクリューパス(回転をかけることで空気抵抗を減らすパス)が生まれたばかりだった。数多の先達から様々な指導を受けたが、依然として決定的な練習方法は確立されておらず、「本当にこの練習方法であっているのか?非合理なんじゃないか?」と全てを疑っていた。「確立されていないからこそ自分だけのパスを編み出し、武器にすれば一流になれるはず」と後藤はさらに練習にのめり込んだ。
 
 スクリューパスを投げる際には、ラグビーボールを片手で掴み、もう片方は添えるだけという「(海外由来の)フレーズ」が支配的だったなか、後藤は自分の頭で考えた。外国の選手の手は大きい。大きいからこそ、ボールを片手で持っても十分に指先の力が伝わり、回転のスピードが上がる。だが、手の小さな自分の場合はどうか。ボールに十分な力を与えるためには、両手で持ったほうがいいのではないか。誰かがやっているから、同じようにやるのではない。自分自身の特徴を知り、活かすための最適解を探したのだ。

「もっといい練習方法はないか。もっと強く速く正確にパスを出すためにはどうすればいいんだ?」。必死に〈質〉を追求した後藤は、結果として〈量〉を誰よりもこなすようになっていた。

〈質〉にこだわるために、後藤は「パスを出す」という動作をボールの角度、軌道、回転数、ボールに触れてからリリースするまでのタイミング、受け手の取りやすさ等に分解して考えるようにしていた。これにより「なんとなく上手くいった」でおわらせず、「今のパスは角度や軌道、回転がうまくいった。ただ、リリースまでに時間がかかり過ぎていたな」と内省を詳細に言語化することができた。自分の足りない部分が明確になったことで、さらに〈量〉をこなす。後藤は当時を振り返り、次のように語る。「明らかに人と違ったことは質を追求するために取り組んだ練習量ですね。学校から帰ってから一人で練習をし、寝る直前までボールを触りながら動作を確立させていきました。なんなら寝ている間もボールの持ち方、身体の動かし方を考えていました。才能はありませんでしたが、世界一考え、練習したと思っています」

 中学1年生当時、後藤は身長143cm。中学でも勝てない時期が続いた。それでも日本一を目指し「今勝てなくてもいい。10年後に日本一になろう。そのために今何をすべきだろうか」と切り替えて練習に励んでいた。友達と遊ぶよりは練習。やんちゃをするくらいなら練習。怠けるよりも練習。全ては「日本一になるために何をすべきか」が基準だったという。余談だが、後藤はこの10年後、22歳で日本代表に初めて選出された。

第2回につづく

三代侑平

筑波大学、筑波大学大学院を卒業後、新卒で私立高校教諭として入社。担任をはじめ様々な教育活動に従事。識学入社後は、マーケティング部にてウェビナーや各種広告運用を担当。現在は、社内外両面の広報として、メディアリレーションや講演会活動、記事執筆など幅広い業務に携わる。