【スポーツとマネジメント①】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由

地元の超強豪校には敢えて進学しない

 高校進学の際もこの基準に従った。当時、大分県で生活していた後藤の周りには「ラグビーをするなら大分舞鶴」という風潮があった。しかし、彼は一歩引いて「日本一になるのに大分舞鶴は最適なのか?」と熟慮した。

 当時の大分舞鶴高校のラグビー部は、県内にライバルはおらず、一強だった。同校は、県外にも積極的にスカウトの網をひろげており、所属していた選手のレベルは非常に高かった。しかし、花園に出場すると、なかなか勝ち抜くことができず、苦戦を強いられていた。

 また、県内では進学校だが、「ラグビー部はあまり勉強しない」という噂を耳にもしていた。実は後藤は「ラグビーの強い大学に行きたい」という想いから、中学以降、勉強にも力を入れており、成績はオール5の優等生だった。

 当時、テレビで放映されていた大学ラグビーの試合は早慶戦や早明戦。後藤にとっての大学は早稲田、慶應、明治、筑波など名だたる進学校ばかりであった。そのため「ラグビー部であまり勉強しない環境にいて、高校を卒業した後はどうなるのだろう?」と不安になったという。
 
 結果、後藤は大分舞鶴には進学せず、神奈川の文武両道で知られる桐蔭学園に進学した。神奈川は母親の出身地。ということもあり、「神奈川はどこの高校が花園に出ているのだろう」と軽い気持ちで調べたところ、桐蔭学園の名前を見つけた。実は桐蔭学園はこの年が花園初出場だった。そんなことは露知らず、後藤は桐蔭学園ラグビー部のセレクションを受け、無事合格。地元の大分舞鶴ではなく、敢えて周りとは異なる道を選択したのである。

悔しさの残る高校生活

 桐蔭学園には、賢い生徒が多かった。ラグビー部には一般入試を経て入学する生徒も多く、大分舞鶴と比べると、ラグビーの才能に恵まれていた生徒は少なかったという。だが、その分、生徒に考えさせる練習が多く充実した高校生活を送ることができた。

 当時の練習を振り返り後藤は次のように語る。「例えば、パスが通らない、という課題があったとします。通常ですと、高校の先生がパスの精度が向上する練習メニューを考えて、それを生徒にやらせる。部員もそれをひたすら反復練習する、というのが一般的だと思います。ですが、桐蔭学園では先生が選手に対して『ここを改善するために何が必要か?』というのを都度問いかけ、考えさせる風土がありました。生徒が自分なりに答えを出すようになるので、考える力自体も養われますし、それを意識した上で練習に取り組むので、練習自体の〈質〉も高まっていたと思います」。自分なりに答えを出し、それを練習の中で試す。後藤がこれまで1人でやってきたことに、部員みんなが取り組んだおかげで、チームは徐々に体制を整えることができた。

 結果、高1で後藤はリザーブとして花園に出場。2年生では花園に進出できなかったものの、高3では再度花園にキャプテンとして出場。チームはベスト8の成績を収めることができた。

 中学までは県選抜レベルであった後藤は、この頃になると全国レベルで注目されるようになっていた。そして高3の夏、後藤は高校日本代表候補に選出された。「才能がない自分でもここまでの努力で世代別のトップカテゴリーには入れた」という自信になったという。目指してきた〈日本一〉が見えてきた瞬間である。しかし、同年冬、高校日本代表が発表される時と、そこに後藤の名前はなかった。

 悔しさのあまり、後藤は国立競技場で開催予定だったU18東西対抗戦の出場を辞退。「国立競技場には大学選手権で行ってみせる」。引退後も次の日から練習に励んだ後藤は悔しさを胸に、2001年早稲田大学に進学。そこで名将、清宮克幸監督と出会う。

全ては〈日本一〉のために

 後藤は「日本一になるために」ラグビーを小2で始めた。スクラムハーフとして、日本一になるためにはどうすべきか。日本代表に選出されるためにはどんなキャリアを積む必要があるのか。そんな明確な目標があったからこそ、そこに向けてのプロセスも明確になり、必死で努力を重ねることができたといえる。

 高校卒業までに後藤の夢は叶わなかったが、その後、彼のラグビー人生は大きく加速する。早稲田大学在学中にに選手として日本一。神戸製鋼ラグビー部にてキャプテンを務め日本代表に選出。指導者としても3つのチームを日本一に導くことができた。これらの転機はいつなのか。実績を残せた秘訣とは何か。次回は大学進学後、名将清宮克幸監督との出会いから解き明かしていく。

第3回につづく【スポーツとマネジメント①】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由

三代侑平

筑波大学、筑波大学大学院を卒業後、新卒で私立高校教諭として入社。担任をはじめ様々な教育活動に従事。識学入社後は、マーケティング部にてウェビナーや各種広告運用を担当。現在は、社内外両面の広報として、メディアリレーションや講演会活動、記事執筆など幅広い業務に携わる。