悪いというか、下手ですね

 試合後、宮川も含めたレギュラー選手、4年生たちはロッカールームに引き上げ、内田正人監督の話を聞いたという。

「そんな特別なことはなくて、あっさりした感じでした。『宮川は闘志を見せた。結果は、おれの責任だ』と監督が言って。宮川に向かっても『退場の処分を受けたんだから、今日のことは、これで終わりだ。誰かに詰められたら、『おれにやらされたと言え』と。それぐらいです」

 あの日、フェニックスのロッカールームにいたひとりがインタビューに応じてくれた。

「自分も、そんなに異常とは思わなかったですね。さすがに相手を殴るのはないですけど、この試合にかぎらず、レイト・ヒットなんて、いくらでもありますし。
 ただ、(相手選手がボールを放してから)2秒(後のタックル)は遅いですよ。遅すぎです。悪いというか、下手だったんですよね。1秒未満なら、反則になんかなりません。勝負なんだから、誰でもそれを狙います」(既出OBとは別の、フェニックスOB)

 遅いのではなく、下手。

 1秒未満なら、反則にならない。

 この言葉に、コンタクト・スポーツを貫く真実の側面のひとつを見出すのは、無理筋だろうか。

スポーツのルールと戦争のルール

 コンタクト・スポーツの機微を否定したいのではない。
 
 むしろ逆に、もし、この機微に目をつむる人がいたとすれば、その人はプロ野球より——あのイベントがえげつない商売道具であることはすっかり看過して——甲子園ばかりを有難がる、イデオロギー的スポーツ愛好者だろう。

 悲しいかな、心からスポーツの純粋を信じる者などいないのだ。恥ずかしげなく、美しいフレーズを口にする人々は、「真相」を分かっていながら、自らの立場や利益をむさぼるために、あえて純朴を装う偽善者に等しい。米軍が、兵士の鍛錬にアメリカンフットボールの練習を使うように、スポーツのルールは戦争のルールと酷似している。

 建前としての「決まり」はあるが、勝つために「そのルールが(ときとして)破られること」を、プレイヤー全員が承知しておこなわれるという意味で、スポーツは紛れもなく戦争の隣人である。そしてしばしば、戦争犯罪の呵責は勝者には向けられない。それも、スポーツと同じだ。
 
 宮川の行為が問題なのは、それが真実のスポーツマンシップにもとるからではなく、稚拙だったことにこそ、ある。

よく言うよ

 にもかかわらず、この行為が「技術の不足」ではなく、「正義の不足」の追求にすり替えられてしまったことが、今回の騒動をより醜いものに変貌させてしまったのではないか。

 取材に応じてくれた当時の選手や関係者たちの証言によれば、試合直後のロッカールームの段階で、内田監督は宮川の「下手打ち」の責任を負うと宣言している。記者たちの囲み取材でも同じだ。「内田がやれと言ったって、書いていいですよ」と発言した。

 記者から、関学大の鳥内監督が「宮川のプレーで試合をこわされた」と話したと伝えられると、〈よく言うよ、何年か前の関学がいちばん汚いでしょ〉*と切り返し、こう続けた。

〈宮川でも、すべてのディフェンスの選手でも、飛び込んでみないと分からない。どういう世界か。それが反則であるっていうのであれば、僕の責任だし。こんなこと言っちゃ悪いんだけど、宮川はよくやったと思いますよ〉*

* 事件当時、週刊文春デジタルが公開した「内田監督(とされる)音声」を書き起こしたProject Logicメンバーのメモより。

第4回につづく

Project Logic

全国紙記者、週刊誌記者、スポーツ行政に携わる者らで構成された特別取材班。