文=新川諒

現役生活は怪我との戦い

写真:共同通信社

藤田太陽。野球に興味がある人であれば、お馴染みの名前だろう。彼がプロ野球選手としてのキャリアに幕を下ろしてから、3年近くが経過した。

秋田の新屋高校卒業後、川崎製鉄千葉(現JFE東日本)での社会人生活を経て、2000年のドラフトで阪神タイガースから1位指名を受けて華々しくプロ入り。川崎製鉄千葉に進んだ際は、社会人で3年やって指名を取れなければ、教師になるため野球を辞めて大学に行く覚悟だったという。まさに人生を懸けた挑戦だった。その戦いに勝利し指名を勝ち取った瞬間は、幼い頃からすべてを犠牲にして野球に打ち込んできた自らの人生が報われた思いだったという。

だが、すぐに大きな試練が訪れる。並み居る才能を押さえての指名1位。当然、プロの世界でもやっていけるという自信を持っていたが、キャンプ開始1週間でフォームの改造を命じられてしまう。肘の負担が少なく、体重移動もスムーズなフォームを求め、アマチュア時代から試行錯誤を重ねた結果、やっと会得した投げ方。それが完全に否定されたのだ。一体何が評価されて“ドラ1”指名を受けたのか。藤田の心の中には、戸惑いとともに、根本的な疑問が芽生えていた。

「もっとシンプルに投げろ」という言葉に従い、努力を重ねる日々。しかし、どうしても形にすることができない。「やはり僕には合わなかったので、できません」。やっとの思いでコーチに打ち明けると、返ってきたのは「じゃあ、試合で使うことはできない」という厳しい宣告だった。

置かれた環境にいかに適応し、結果を残すかもプロの実力のうちだ。数年後の彼であれば、コーチとコミュニケーションを取り、周囲に様々なアドバイスを求め、その試練を乗り越えられたかもしれない。しかし、「まだまだ未熟で人としての引き出しもなかった」という当時の藤田には、それができなかった。自分を否定した周りの人間がすべて敵のように思え、誰にも相談できないまま、気持ちが引きこもってしまったという。

コーチの宣告を知ってか知らずか、苦悩するドラ1ルーキーに対し、報道も徐々に加熱していった。焦りの中で彼はもがき、ようやく「使ってもらえる」スタイルに自らを押し込める。だが、結果として得られたものは、消えることのないフォームへの違和感と、肘の状態の悪化だった。

阪神タイガースには2001年から2009年まで在籍し、1軍では46試合に登板。2003年にはロサンゼルスで右肘靭帯移植手術を受けている。

フォーム変更でつまずいた彼にとって、その後のプロ人生はもはやロマンではなく、現実的な生業となった。「“野球一本で飯を食う”という壮大な夢というより、それを1年でも長く現実にするための道を常に探していた気がします」と述懐する。上手くいかない中でも工夫を怠らず、我慢し、結果を出すため必死にもがく日々だった。

怪我との戦いは続き、2009年途中には埼玉西武ライオンズに移籍する。リリーフ投手として、2010年には19ホールドをマークするなど結果を残し、4シーズン在籍した。2012年シーズン後に退団すると、翌年東京ヤクルトスワローズに入団。この年、20試合に登板し防御率1.93と好成績を記録する。プロ入り13年目にして、遅い春がようやく訪れたかに見えたが、これが彼の現役ラストシーズンとなった。

セカンドキャリアを考えさせられるタイミングは突然やってくるものだ。球団は毎年7月末ぐらいまでに翌年の構想をある程度判断する。選手たちは自らの使われ方、呼ばれ方が本当に必要な場面か否かで、チーム内での立ち位置を理解し始めるという。「若い選手にチャンスを与えたいから我慢してくれ」という言葉は、“今季限り”の宣告に近い。

新天地ヤクルトにあって成績自体は安定していた藤田だったが、チームの中で変わっていく自らの役割を実感した時、引退の二文字が現実的に浮かんだ。長年酷使してきた肘は、すでに私生活にも影響を及ぼしていた。実際には歯磨きをするのも、シャンプーをするのも困難な状態。自身を見限りつつあるチームに対し、これ以上のプレーでアピールすることは不可能に思えた。

実は、他球団で現役を続行するという選択肢もあったが、自ら断っている。獲得に興味を持ってくれたチームは手術を受けて復帰を目指す方法も考慮してくれたという。しかし、そんな球団の厚意と年俸に対して、パフォーマンスで返せる自信が持てなかった。

何より、プロ人生の岐路に立って藤田が考えたのは家族のことだった。仮に新天地で活躍できたとしても、体を更に痛めつけていくことに変わりない。その先に野球後の人生が30年、40年と待っている以上、一家の大黒柱としてボロボロになるわけにはいかなかった。これから家族のために何ができるか、どう一緒に過ごしていくかを考えた時、34歳でのプロ野球引退は、彼にとって自然な選択だったという。

13年間のプロ野球人生。藤田にとって、プロとしてプレーする醍醐味とは、観てくれる人を感動させることに他ならなかった。スタンドやテレビの前のファンが自分のプレーから何を感じるか。それが重要だと思い続けてきた。野球を知らない人でも感動できるプレーをするためには、一つのプレーも手を抜くわけにはいかない。そのプレーが出来なくなってしまった時点で、引退という道は必然だったのかもしれない。

「決して順風満帆ではなかったが、僕らしく不器用ながらも、もがいた13年間でした」とプロとしての野球人生を総括する。

引退後に訪れた苦悩

©藤田太陽

藤田曰く、30歳を過ぎてくると、多くのプロ野球選手がセカンドキャリアを考え始めるという。特に家族がいる選手は、嫌でも引退後の人生設計と向き合わなければならない。

“戦力外”の兆候が見え始めると、自身の将来を心配し、宅建など資格取得の勉強を始める選手が多いそうだ。体一つで稼いできたプロ野球選手の気質ゆえか、飲食店経営に挑む者も多い。だが、シビアな経営感覚を持たず、先輩や後輩、メディアの人が店に来てくれれば何とかなる、という安易な考えで痛い目に遭うケースも少なくない。

そんな先人の例をたくさん見てきただけに、同じ轍を踏むまい、という思いが藤田には当然あった。だからこそ肉体的にも余力を持って臨んだ第2の人生だったが、転職活動はすんなりとは進まなかった。

「引退を自分で決めたはずなのに、実際には1カ月半、何もできない状態に陥ってしまいました」

プロ野球選手もいち社会人には違いない。しかし、一般的な職業とは、やはり大きな隔たりのある世界であることを痛感させられた。いざ新たな仕事を始めようにも、ビジネスに関する基礎的な知識もスキルも持たない。普通の社会人であれば新人研修で習得するような名刺交換のやり方や書類の作り方すら分からないのだ。新たな大陸を見つけようと意気込んではみたものの、目の前の大海を前にして、船の漕ぎ方も分からなければ、羅針盤の見方も分からない。途方に暮れるほかなかった。

「34歳になって恥ずかしい話ですが、進むべき一歩としてはそれしか分からなかった」。そう明かす藤田がようやく踏み出した第一歩は、パソコン教室に通うことだった。しかし、スキルはなかなか上達せず、その先にどんなビジネスや職業があるのかも見えてこない。第2の人生を見いだせず、教室に通うしかない不甲斐なさに、鬱状態に陥ることもあったという。

更に追い打ちをかけたのは、華やかな世界を去って初めて知った“孤独”だった。現役時代、プロ野球選手の周りには様々な人間が集まってくる。中にはブランド品を持つのと同じ感覚で、人脈に箔をつけるために寄ってくる者も少なくないが、選手の多くはそれに気づかず、“取り巻き”を親友であるかのように錯覚してしまう。

だが、人を寄せ付ける魔法はユニフォームを脱いだ瞬間に解けてしまう。「困ったことがあったらいつでも言ってね」というお決まりの台詞を残して彼らは去っていくのだ。そこで、プロ野球選手という肩書を失った自分がいかに無価値かを思い知らされる。藤田もまた、社会の冷たさと自分の無知に嫌気が差し、打ちのめされていた。

そんな辛い日々から彼を救ったのは、自身が積み重ねてきたキャリアに他ならなかった。藤田が歩んできたのは、提示された金額にパフォーマンスで応え、シビアに評価される人生だ。お金を稼ぐために、自らの価値を高めるのが当たり前の世界。そこでは、自身がどんな状態であっても、チームに求められれば必ずマウンドに上がってきた。その経験は、第2の人生においても必ず通用するはず。「お金を稼ぐためには、どんな仕事でもこなしていく」。13年間貫いたポリシーが、再び彼に気概を与えた。

改めて自分を見つめ直した藤田は、客観的に、元プロ野球選手を採用する魅力がどこにあるのかを考えたという。パソコンを駆使し正確な事務処理を行うことだろうか?アイディアの独創性や幅広い知見を披露することだろうか?いや、対価として求められるのは、営業能力とコミュニケーション能力ではないのか。会社が最も求めるのは、元プロ野球選手としての知名度と、その先に広がるネットワークのはずだ。その結論に至った時、彼の目指す道は自ずと決まっていた。

「人の大切さ」から広がった新たな世界

©藤田太陽

「人が大事。年齢関係なくいろんな人と会って、良い話を聞いて、頭を下げてでも、色んな知識をもらうこと」

自分の人脈やコミュニケーション能力が武器になると確信してからは、周囲の人や先輩に積極的に相談し、コミュニケーションを図ることで、藤田は様々な知識や経験を身に付けていった。いろんな人に会う中で世界が広がり、その魅力も日に日に大きくなったという。

知人の紹介で焼肉店のアルバイトに就くと、飲食店のノウハウを学べただけでなく、飲食店を経営しているデーブ大久保氏との繋がりが生まれた。その縁で、彼が主宰する「デーブベースボールアカデミー」の投手コーチを務める機会も得ている。

また別の出会いによって、健康食品事業や飲食店経営を行うCIFA株式会社で仕事をするようになった。富山の社会人クラブチーム・ロキテクノベースボールクラブのコーチに招かれたのも、別の出会いがきっかけだった。今では月曜から木曜まで東京で過ごし、それ以外は富山に赴く日々だ。

1人でも多くの野球選手を輩出すべく、全国で野球教室も開催している。妥協せず、真剣に指導した結果、野球の名門校にも選手を送り込むようになった。ビジネスの世界に身を置く藤田だが、その根本には常に野球があり続ける。

それゆえか、「まだ野球以上にアドレナリンが出て集中できることは、今の僕には見当たらない」と本音を漏らす。見当たらないから、それが何かを探す旅の途中。ただし目指す方角は、あの頃とは違う。現役時代は、自分が年俸に見合った、あるいはそれ以上の存在であると証明するのに必死だった。お金が評価基準だったあの頃とは違い、今の藤田が欲するのは「やりがい」だ。ビジネスのプロフェッショナルとして、愛する野球以上に心血を注げる仕事を、彼は模索し続けている。

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新川諒

著者プロフィール 新川諒

1986年、大阪府生まれ。オハイオ州のBaldwin-Wallace大学でスポーツマネージメントを専攻し、在学時にクリーブランド・インディアンズで広報部インターン兼通訳として2年間勤務。その後ボストン・レッドソックス、ミネソタ・ツインズ、シカゴ・カブスで5年間日本人選手の通訳を担当。2015年からフリーとなり、通訳・翻訳者・ライターとして活動中。