いきなりの「お呼び」と「お詫び」

1月4日に70歳で亡くなった故・星野仙一氏は、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスの指揮を執った名将だ。通算17年間の在任でAクラスが10回。のべ4度の優勝、1度の日本一にも輝いている。2014年に楽天の監督を退いたのちは、同球団のシニアアドバイザー、副会長を務めていた。中日のエースとして通算146勝を挙げた右腕でもある。そんな彼の「凄さ」はグラウンドやベンチの外へ出たときに発揮された。
 
勝手に恩師をネタにするのは恐縮だが、故人の人となりが伝わるエピソードなので紹介したい。筆者にとって大学でゼミの指導教員だったのが藤井浩司教授。彼は1987年から東北福祉大で専任講師を務めていた。

ある日の授業中に態度の悪い学生がいて、新任の藤井先生は彼を厳しく注意をした。最終的に師弟は分かり合える関係になり、師は怒ったことなどすっかり忘れていたという。

そのしばらく後、関西遠征中の野球部の伊藤義博監督(故人)と部長に、中日ドラゴンズの青年監督・星野仙一氏から「お呼び」がかかった。思い当たる節のない二人は、恐々と料亭に向かったのだという。彼らがお座敷に入ると襖が開き、そこに星野監督が平伏をしていた。

「大変申し訳ありませんでした」

なぜ星野監督が詫びているか分からない二人に、説明があった。「ウチの親戚の子が藤井先生の授業で大変なご迷惑をおかけした。厳しいご指導を頂いたことに感謝をしている」。そんなことを星野監督は語ったそうだ。藤井先生は部長から後に経緯を聞かされて、自分が叱ったことを思い出した。
 
東北福祉大は1983年に全日本大学野球選手権へ初出場。85年と86年に8強、87年に準優勝と飛躍する。87年から91年までの5年間には、4度も決勝に進出する黄金期だった。佐々木主浩が86年、矢野耀大が87年、齋藤隆と金本知憲が88年という具合に逸材が次々と野球部の門を叩いていた。
 
星野氏は1987年から中日ドラゴンズの監督を務めていた。中日もそこから矢野や門倉健、鈴木郁洋といった選手を東北福祉大から獲得する。球団、監督としては当然ながら有望な新興勢力と関係を深めたかっただろう。さて、東北福祉大にどうアプローチするか――。星野監督は「若手教員による甥っ子への厳しい指導」という小さなハプニングを逆手にとって、関係性を深めようとした。

球場外で手腕を発揮した「人たらし」

近年は変化も見て取れるが、20世紀のプロ野球界は監督の「守備範囲」が広かった。指揮官に元スター選手が多かったのは、お客を呼ぶための広告塔を期待してのことだろう。またNPBでは監督が補強戦略を立案することが多い。フリーエージェント表明やドラフト会議の後にはとして自ら足を運び、選手を説得することもある。MLBならばこれはゼネラルマネージャー(GM)が行う業務だが、星野氏はそういった仕事でも手腕を発揮していた。
 
記者との関係構築も抜群だった。自分はテレビ局の先輩など複数の記者から「俺は星野仙一とこんなに関係が深い」「こんな話を知っている」的な自慢めいた話を聞いたことがある。彼には人間関係を構築する能力があるだけでなく、「自分は特別扱いしてもらっている」と思いこませる人たらしの異才があった。

企業のトップに対する営業マンとしても有能だった。甲子園球場に絡んで「あのバックスクリーン横の看板は星野さんが社長と直談判して取ってきた」という話を聞いたことさえある。彼は財界人、芸能人など斯界の大物と広く交際していて、それをスポンサー営業やチケットセールスにもつなげていた。「年上キラー」「爺様キラー」と言われた彼だが、最後は自信より20歳近く若い三木谷浩史・楽天社長の信頼を得た。相手の年齢は関係なかった。
 
彼はあの名将・野村克也が再建できなかった阪神タイガースを再建し、就任2年目の2003年にはセ・リーグを制した。それは金本、伊良部秀輝といった強力補強があったからなのだが、星野氏は球団を説得して資金を確保し、おそらく自らも汗をかいて原資を引っ張ってきた。そういう「交渉力」を彼は持っていた。

プロ野球という枠を超えたエンターテイナー

何より彼はダンディでカッコよかった。1982年に引退すると、85年にはNHK「サンデースポーツスペシャル」のキャスターへ就任している。「引退した選手がキャスターを務める」という今に続く流れを作った人物だが、星野氏は見栄えとコメント力の両方を持っていた。生放送でウイットに富んだ当意即妙のコメントができる「素人」はなかなかいない。少なくともあの時代のプロ野球界にあって珍しく球場外での発信力があり、「闘将」というパブリックイメージも含めて自分をしっかり見せることのできるタイプだった。
 
その手法はおそらく他の人間に模倣できるものでないし、「上手すぎる」コミュニケーション力を胡散臭く思う人もいるだろう。しかしその価値は彼が3つの球団から必要とされ、ファンを魅了したという事実が証明している。
 
もちろん彼が完全無欠の野球人だったとは思わない。青年監督時代の「鉄拳制裁」や、2008年の北京五輪におけるメダル獲得失敗、与田剛を筆頭とした若手投手の酷使など、指揮官として今も批判される要素はある。
 
しかし彼はNPBの12球団が得てして欠いているプロモーション、営業といった職域を個の能力で埋め合わせた。タフなネゴシエーターとして、強化でも手腕を存分に発揮した。プロ野球という枠を超え、日本のプロスポーツ、エンターテイメントビジネスの先頭を引っ張る凄腕だった。
 
ブランディング、宣伝、営業、強化、采配を一手に担った彼は、5ツールプレイヤー(走攻守の全能力を持つ万能選手)ならぬ「5ツールマネージャー(監督)」だったのだと思う。そんな驚異的な才能との早すぎる別れが惜しまれる。
 
<了>

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大島和人

著者プロフィール 大島和人

1976年に神奈川県で出生。育ちは埼玉で、東京都町田市在住。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れた。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経たものの、2010年から再びスポーツの世界に戻ってライター活動を開始。バスケットボールやサッカー、野球、ラグビーなどの現場に足を運び、取材は年300試合を超える。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることが一生の夢で、球技ライターを自称している。