(C)荒川祐史

“ニーズ”や“ウォンツ”を突き詰めていく

「ランナーそれぞれにニーズがあって、その後ろに企業さまがあることを常に意識しています」

2007年に第1回大会を開催した東京マラソンが、世界6大マラソンに数えられるまでに急成長した要因は、やはり早野氏の力によるところが大きいのだろう。小手先の知識や経験ではなく、マーケティングの本質をブレることなく深堀りしていく力だ。決して、スポンサー欲しさにランナーを置いてけぼりにしてしまうような施策はしない。講義の後、早野氏にマーケティングで最も大切にしていることを聞くと、このような回答が返ってきた。

「みなさん、“ニーズ”(Needs)や“ウォンツ”(Wants)が大切ですって口では言います。しかし、市場のお客さまの原点がどこにあるのか、本当にそこまで立ち返ってマーケティングしている人ってなかなかいないんです。だからこそ、ぼくはそこにこだわって東京マラソンを育てようと思いました」

ニーズやウォンツを理解して、それに応えていけばお客さまがハッピーになれる。早野氏の考え方は単純明快だ。では、東京マラソンは具体的にどのようにお客さまのニーズやウォンツを取り入れているのでしょうか? 

「東京マラソンは、まず仕組みづくりが違います。代理店や下請け業者に頼るのではなく、私たちが直接ランナーに話を聞いています。そこでわかったことですが、ランナーは、みなさんナルシシズムを持っています。それを満たしてあげる仕組みや企画を考えて、メッセージを発進しているのです」

ランナーのナルシシズムについて、早野氏は「スターになりたい気持ち、例えば有森裕子さんのように活躍して褒められたい気持ち」と表現します。

「東京マラソンに参加すると、参加した人たちそれぞれのナルシシズムを満たせます。東京マラソンという檜舞台に立ち、走りきることで参加者一人ひとりにドラマが生まれるんです。32600番にフィニッシュした人が涙を流して“自分を褒めてあげたい”と言います。そういう感動を味わってもらえるような運営を心掛けています。『Make your drama』というテーマを大切にしています。」

つまり、運営サイドがドラマをつくり出すのではなく、参加者自身が自らのドラマを描いていく。そんな自由度の高い大会を目指してきた。そこに“綺麗になります”“痩せます”“健康になります”という類いのメッセージはない。

「僕らにできることは、ランナーの走る喜びを支えることです。人間のナルシシズムを満たすことを突き詰めていくと、自信を持ってもらうことにたどり着きます。自己肯定感が下がりやすい社会で生活する人たちが、東京マラソンを完走することで自己肯定できる。そういう大会を目指しています」

(C)荒川祐史

足が遅い人にも、走る喜びを知ってほしい

口だけでなく実際に事業に落とし込んできたことが、東京マラソンの強みといえるだろう。1万1000人ものボランティアを募った。

「これも、『Make your drama』の一環です。ランナーだけではなく、より多くの人たちに東京マラソンに参加してもらい、自分だけのドラマをつくってほしいと思っています」

一時のランニングブームが頭打ちになった今も、東京マラソンは発展を続けている。2012年に世界最高峰の「アボット・ワールドマラソンメジャーズ」の仲間入りを果たしたことで、日本だけでなく世界中の人々が、東京マラソンに参加することを夢見るようになった。

2007年頃からのブームを受けて企画された数あるマラソン大会の中で、なぜ東京マラソンだけが世界規模の成功を収めることができたのだろう。そこには、早野氏のスポーツに対するグローバルな価値観が影響しているように思えてならない。

「日本の体育教師という仕事は、エリートをつくって、インターハイに出場して評価されるわけです。つまり選ばれたエリートのためのものという考え方です。僕がアメリカで感じた“スポーツ”はそういうものではありませんでした。」

それは、早野氏が800m競争の選手として日の丸をつけて渡米した時のこと。音楽を聴きながら準備を進め、走ることを心から楽しむアメリカ人選手の隣で、どこまでも規律正しく険しい表情で走る日本人選手は、まるで日の丸特攻隊のように見えた。「その頃から日本のスポーツが間違っているのではないか?」と考えるようになったという。

「スポーツは、市民を港湾労働から解放する娯楽や遊びとして生まれました。ところが日本の体育では、港湾労働とまったく同じことが行われてきました。スポーツをすることで逆に縛られてしまう。例えば、学校の体育の先生が『スポーツは素晴らしい』って言うけど、生徒の中には『それはあなたの足が速かっただけじゃないか?』と感じる人もいると思うんです。速く走れる人しか褒められないし、楽しめない。すると足が遅い人は、『二度とランニングなんかするか』と言ってシューズを投げ捨ててしまう。そういう人をつくり出す教育なんです、日本は。だからこそ、足が遅い人たちが走ることを楽しめる大会にしたかったんです」

難しい戦略は一つもない。“東京がひとつになる日。”というスローガンの下で、全ての人が走ることを楽しめる大会へ。そのために何ができるかを突き詰めて実行していくのみ。その姿勢が、12.1倍という桁外れの抽選倍率を誇るマラソン大会を支える礎となっている。

<了>

(C)荒川祐史

[PROFILE]
早野忠昭(はやの・ただあき)
1958年生まれ、長崎県出身。高校3年生時に、全国高校総体男子800m優勝。筑波大学体育専門学群を卒業後、高校教諭を経て渡米。アシックスボウルダーマネージャーとして勤務。帰国後、ニシ・スポーツ常務取締役に就任。2006年から東京マラソン事務局広報部部長、2010年東京マラソン財団事務局長に就任。2012年より東京マラソン財団事業担当局長・レースディレクター、スポーツレガシー事業運営委員長として活躍中。国際陸上競技連盟ロードランニングコミッション委員。2017年よりスポーツ庁スポーツ審議会 健康スポーツ部会委員長、内閣府 保険医療政策市民会議委員に就任。

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VictorySportsNews編集部