誇れるものがなかった 落ち続けたアナウンサー試験

「私は決して、東京パラリンピックがあるからパラスポーツに興味を持ったわけじゃないんですよ。こういう世界があるんだよってことを、普通に知ってほしい。東京パラリンピックは、その追い風になってくれればと思っています」

2013年9月7日、IOC(国際オリンピック委員会)のジャック・ロゲ会長(当時)が「Tokyo!!」と発したあの日、日本で2度目となる夏季オリンピック・パラリンピックが開催されることが決まった。あれから5年半。日本でのパラリンピック、パラスポーツへの関心は、かつてないほどに高まりを見せている。

だが、彼女がパラスポーツと出会ったのは、東京パラリンピックが決まるよりもさらに2年も前にさかのぼる。

「大げさに聞こえるかもしれませんが、“その言葉”があったから今の私がある。“その人”が私の人生を変えてくれたんです」

そう話しながら、彼女は優しくも力強い口調で、その人との邂逅を振り返った――。

(C)UZA

1985年、阪神タイガースが日本一を飾ったその年に大阪で産声をあげた、久下真以子さん。テレビの画面にはいつも阪神戦のナイターが映し出される家庭で育ち、自然とスポーツを好きな少女へと育った。自身でも3歳からは水泳を、高校からはバレーボールを始めた。「下手ですけど、好きなんです」と話し、今も休みの日には遊びでやることもあるという。

ただ当時はまだ、スポーツやアナウンサーという仕事に興味があったわけではなかった。祖父の影響で小さいころから医者という職業に漠然と憧れは持っていた。だが、「勉強ができなかった」という理由で、いつの間にか諦めていた。
「将来の夢は……、う~ん、何かあったかな。当時はみんな“アムロちゃん”(安室奈美恵)になりたがっていましたよね。私もその一人でした(笑)」

そんな彼女がアナウンサーを志すようになったのは、大学2年生の時だった。たまたま中高大と10年間クラスメートだった友達の父親がアナウンサーの仕事をしていたことから、ふとしたきっかけで「どうしたらアナウンサーになれるんですか?」と聞き、アナウンススクールを紹介されたのだった。

「最初は右も左も分かりませんでしたし、先生がすごく厳しくて、親からも人生であれだけ怒られたことはなかったと思います。第二のお母さんみたいな存在で、自分の甘えた人間性をたたき直してもらいました。通い続けるうちに、アナウンサーの仕事って面白いなと思い始めている自分がいましたね」

これまでの人生、何でも“それなり”だった。勉強も、部活も、大学受験も、あらゆる場面でそれなりに目標は達成してきた。だが、それは自分の手の届く範囲でしかやってこなかったから。彼女はそんな自分を「何でも普通だった。誇れるものが無かった」と感じていた。

「だから、アナウンサーになりたいという目標だけは、これだけは絶対にかなえたいと思ったんですよね」

だが現実は厳しかった。友人たちが皆、春ごろには内定をもらい、残る学生生活を謳歌している中、彼女はアナウンサー採用試験に落ち続けた。父はアナウンサーという仕事を目指すことをあまり快く思っておらず、「夢を見るのはもうやめろ」とも言われた。だが、それでも諦めたくなかった。

「地方局の採用試験を受けに行くのに、朝早く起きたら、テーブルの上に航空券が置いてあって……。父が『俺のマイレージ、残っているから』って。あの時は、泣きましたね」

そして2月、卒業まであと少しというところで、ようやく採用通知が届いた。

「あまりにも落ち続けていたので、母も私も『えっ……?』って(笑)。本当にギリギリでしたね」

人生で初めて本気で、がむしゃらになって追い求めたアナウンサーという目標。当初は反対していた父にも、その一途な想いは伝わっていた。家族の支えと、何よりも彼女自身の熱意が、夢への扉を開いたのだった。

後にリオ銅メダリストとなるあるアスリートの金言

四国放送に契約アナウンサーとして入社した彼女は、早くも危機感を覚えた。

「アナウンサーという世界に飛び込んであらためて気付いたのが、みんなアナウンス技術もうまくて、すごくかわいい。私は契約アナウンサーだったので2年ぐらいしたら出て行かないといけないという現実もありましたし、これはヤバいなと感じました」

ここでいかに自分の付加価値を身に付けることができるか。上司の理解もあり、さまざまなことを経験させてもらえた。その一つが、スポーツ中継だった。後述するが、ここで2年間、数多くのスポーツの現場を経験したこと、特に高校野球の取材で感じたことは、彼女の今後の人生における原風景となる。

契約満了後、次は契約キャスターとしてNHK高知放送局へと入局。報道がメインの仕事となった。だが、スポーツの魅力、スポーツ中継の面白さを感じていた彼女は、担当の番組内でスポーツの企画を立てることでスポーツとの接点を持ち続けた。

そんな中で出会ったのが、車いすバスケットボールの日本代表選手としてロンドンパラリンピック出場を目指していた池透暢だ(※)。2011年秋のことだった。
(※2012年からウィルチェアー(車いす)ラグビーに転向。日本代表キャプテンを務め、2016年リオパラリンピックで日本史上初の銅メダル、2018年世界選手権で史上初の優勝を飾る)

右が現ウィルチェアーラグビー日本代表の池透暢選手/(C)浦正弘

これまでの人生で障がい者との接点が無かった彼女にとって、それは大きな衝撃だった。池は19歳の時、友人と一緒に乗っていた車が交通事故に遭い、左足を切断、左手にまひを負った。全身にやけどを負い、2年半の入院生活で手術は40回にも及んだ。もともとバスケットボールの経験があったことから、リハビリの一環で始めた車いすバスケットボール。それが「こんなにもすごいプレーができるのか」と感じたそうだ。彼女は取材の中で聞いたある言葉が、強く印象に残っているという。

「『最初に、ボールを触れるようになった。次に、投げられるようになった。そして、シュートを打てるようになった。一つずつ目の前のことをクリアしていった先に、パラリンピックが見えてきた』と。
 この言葉を聞いたとき、ハッとしました。これは、障がい者の方だけに当てはまることじゃない、誰にとっても人生のヒントになる言葉だと」

彼女は今でもつらいなと感じたときにはこの言葉を思い出すという。

「つらいとき、環境とか自分以外の周りのせいにしがちですよね。でも、結局は自分ががんばらないと前に進まない。環境に文句を言っていても変わらないなら、今この環境で自分に最大限できることは何か。そう考えられるようになりました」

このころから彼女ははっきりと、スポーツキャスターになり、そして、パラスポーツにもっと光を当てるという将来図を描くようになった。

「今からスポーツキャスターになるにはどんな道があるんだろう」と考えていたとき、ロンドンオリンピックの現地キャスターとして活躍するフリーアナウンサーの姿が目に入った。「そうか、フリーになればそういう道もあるんだ!」。その後、NHK札幌放送局での契約キャスターを経て、セント・フォースへと所属し、フリーアナウンサーとして活動を始めた。

だが、彼女はここで思い描いていたようなキャリアを築けなかった。もちろんいくつかスポーツキャスターとしての仕事には恵まれた。だが、もう一つの目標であるパラスポーツには関わることができないまま、3年が過ぎ去った。

「この時期はどこか、周りのせいにしている自分がいた気がします。『なんでパラスポーツの仕事ができないのか』とか、『こんなにがんばっているのに周りは分かってくれない』とか、『なかなかチャンスに恵まれない』とか。でも、池さんの言葉を借りれば、本当に『目の前のことを全力でやっているか?』と」

パラスポーツの現場に行こうと思えば、いくらだってその方法はあるはずだ。テレビの仕事にこだわるのか、それともパラスポーツのことをやりたいのか。自分がパラスポーツをもっと広めていきたいと言っていた気持ちは口だけだったのか……。答えはすでに出ていた。

やっぱりパラスポーツがやりたい――。

そう考えた彼女は、知り合いから『パラフォト』(※)というパラスポーツの専門メディアを紹介してもらい、そこで執筆することを決めた。個人としての仕事になり、取材にかかる費用も全て自費だ。それでも今、自分がやるべきことは、どんな形でもいいから現場に行くことだと考えた。
(※パラリンピックをはじめとするパラスポーツを、楽しみ、知り、伝えるメディア。フリーのカメラマン、ライター、エンジニアなどが参加するNPO(非営利)活動)

「知り合いから、『最近本当に充実した、いい顔になったね』と言われるようになりました。自分が何をやっているのか、どこに向かっているのか、そういった軸となるものがハッキリとしたので、うまくいかないときでも周りのせいにしたり、くじけたりせず、『自分は自分』と考えるようになりましたね」

いちライターとして現場に行くことで、パラスポーツについてまだまだ勉強不足だったことに気付いた。とにかくいろんな大会に足を運び、競技を見て、多くの選手と話した。自分の進む道を自分で切り開いていく。初めてのことだらけだったが、彼女はこれまでにない充実感を持っていた。

「大げさに聞こえるかもしれませんが、池さんの言葉があったから今の私がある。池さんが私の人生を変えてくれたんです。本当に感謝しています。だから、池さんと会えばいつも、『一緒に2020に行きましょうね!』と言っています(笑)」

アジアパラ大会に行った、ただ一人の女子アナとしてできること

半年が過ぎた昨年10月、インドネシアで開催されたアジアパラ競技大会の取材にも足を運んだ。そこで見た光景に、彼女は興奮して涙した。

「40以上の国と地域から、いろいろな障がいを持った約3000人のアスリートが一斉に入場行進をしていて、スタンドに集まったたくさんの観客が大きな歓声をあげている。それを見たとき、本当に感動して泣いちゃったんですよ。それまでは国内の大会しか取材したことがなくて、ああいう空気感はこれまで感じたことがなかったから。アジアパラでもこんなに感動するなら、パラリンピックではどうなるんだろうと……」

アジアパラ競技大会2018の開会式/(C)Getty Images

だが、大会に行く前には、「アジアパラのためにわざわざインドネシアまで行くの?」、「自腹で行って、次につながるの?」と言われたこともあったという。もちろんそれは彼女のことを思って掛けた言葉だったのだろう。実際、アジアパラに取材に行ったアナウンサーは彼女を含めて2人だけ、女子アナは彼女だけだった。だが、彼女の意思は揺るがなかった。それは、四国放送時代のある原風景があったからだ。

入社してまだ間もないころ、スポーツ中継の仕事をやらせてほしいと上司にお願いし、スタンドのリポーターとして高校野球の取材に行くことになった。その試合、0対0のまま延長戦に突入。11回表に1点が入り、ついにこう着状態が崩れるも、その裏、逆転サヨナラで勝敗が決した。スタンドにこだまする歓喜と悲鳴。グラウンドに映し出される勝者と敗者のコントラスト。球児たちが3年間、この舞台に向けて高校生活の全てを懸けてきた戦いが、この瞬間に終わってしまった。それを思うと、思わず涙せずにはいられなかった。

「結果だけだったら、今やどんな方法ででも知ることはできます。でも、その場にいたから感じられることがあると思います。選手たちの想いとか、その場の空気感とか、テレビの画面だけで表現できないものもあって、それをアナウンサーとしてどういう言葉を添えれば視聴者の方に伝えることができるのか。それはアナウンサーによっても違ってくると思いますし、私の目線だから感じられることもあるし、伝えられることもあると思います」

テレビと現場の境目に自分がいる。視聴者にどう伝わるか、自分の責任は重大なのではないか。だからこそ、これだけの熱量を持って競技に向き合っている選手たちと、自分も同じだけの熱量を持って向き合わなくちゃいけない。彼女の中でそういった思いが芽生えた。

「ある試合だけを切り取れば、それは“点”かもしれません。でも選手たちの人生は“点”じゃなくて、“線”になっている。この“線”をどれだけ知っているかで、“点”の伝え方も変わってくるんだと思います。
 選手たちにも、『本当にインドネシアまで来たの!?』と言われました(笑)。でも、おかげでより良い関係が築けたと思いますし、選手たちがアジアパラにどう向き合い、どう戦い、そこで何を感じたか。国内大会とは違う環境で思うように実力を出せなかった選手もいましたし、そういった選手たちが何をつかみ取り、2020年に向けてどのように準備していくのか。そういったものは、やっぱり現地に行ったからこそ見えてくるものがありますし、私ならではの視点で、選手たちのことを“点”ではなく“線”で伝えられるのではないかと思っています」

その後の仕事につながるかどうかなんて分からない。でも、アナウンサーとしての信念を考えれば、現地に行く以外の選択肢は無かった。「他の誰かにとっては意味があるか分からなくても、私にとって意味があると思えるなら、意味があるんじゃないかな」。彼女はまた少し、強くなった。

アジアパラ競技大会取材の現地でのひとコマ/(C)PARAPHOTO 山下元気現地テレビ局や企業などからインタビューされることもあった/(C)PARAPHOTOなぜか現地のポリスにも話し掛けられ、交流を深めた/(C)PARAPHOTO

初対面で池に聞いた「どうやって子づくりされるんですか?」が示すもの

こうしてパラスポーツの取材・執筆活動を精力的に続けてきた彼女に、新たな仕事が舞い込んだ。1月から放送が始まる『PARA SPORTS NEWS アスリートプライド』のキャスター・リポーターに抜擢されたのだ。

「やっぱりすごくうれしかったですね。自分がやってきたことを見てくれている人がいたんだなって思えて。もちろん “テレビの仕事が決まった”ということはすごくうれしい。でも、それだけではなくて……、私の最終目標は、『パラスポーツの置かれている環境を1mmでも動かすこと』です。だから、そのためには必ずしもテレビの仕事じゃなくてもいいと思っています。ライターとして記事を執筆することもそうですし、パラスポーツのために貢献できることであればどんなことでもやっていきたいと思っています」

彼女が将来に見据えている世界とはどんなものなのだろうか?

「『障がい者なのにがんばっていてすごい!』と言われることもあると思いますが、そういうことを伝えたくてテレビに出たり記事を書いたりしているわけじゃありません。そうじゃなくて、障がい者の方もすごいし、健常者のあなたもすごい。弱いところもあるし、強いところもある。みんな一緒。『障がい者なのに』とか『健常者なのに』ではなくて、みんな一緒で、みんなすごい、という世界になればいいなと思っています。だからスポーツの観点でいえば、『仕事帰りに野球観戦に行こうぜ!』みたいなノリで、『今日はウィルチェアーラグビーの試合があるから見に行こうよ!』となってほしいですね。もっとみんな普通に仲良くなってほしいなと。みんな普通なんだから」

現在、日本には約750万人の障がい者がいる。これは、日本全国の佐藤、鈴木、田中、高橋を名字に持つ人口の合計よりも多い数字だ。障がいを持つ人がこれだけ日本にいることを、日常生活の中で実感することはあまり無いかもしれない。残念ながら、障がい者と健常者が分け隔てられているのが、日本社会の現状だ。

「障がいに限らず、世の中にはさまざまな人がいますよね。長所もあれば短所もある。背が高かったり低かったり、得意・不得意があったり、それらは全て個性だと思いますし、それらと同列で、たまたま片足だったり、目が見えなかったりというだけかなと。だから、壁をつくらなくていいんだって思えるようなきっかけをつくっていければいいなと思っています。
 パラスポーツはそれ自体とても面白くて魅力があるので、もちろんそれは伝え続けて行きたいと思いますが、それと同時に、アスリートたちの裏の素顔とか、普段どんな生活をしているんだろうとか、こんなに普通に接していいんだというのが伝われば、もっと距離が縮まるのではないかなと考えています」

(C)UZA

そう考えるようになった原点は、先にも出てきた、池透暢との出会いだった。インタビューの中で、これまでの半生や私生活のことを聞いていたときのことだった。「今は誰と住んでいるのか?」という質問に対し、池は「嫁と2人の子どもがいます」と答えた。彼女は「えっ!?」と止まった。

「生まれて初めて障がいを持つ方とお会いしたということもありますが、本当に無知でしたね。障がい者の方が恋愛して結婚するというのも身近ではなかった。池さんは左足が無かったり、左耳が無かったり、決して軽度の障がいではありませんし、その時は正直、びっくりしたんです」

彼女は率直に疑問に思ったことを聞いた。「どうやって子づくりされるんですか?」と。池は一瞬驚いた顔をして、思わず笑い出した。「初対面でそんなん聞いてくる女子アナ、初めてやわ!(笑)」。ちなみに質問に対する池の回答は、にこっと笑って「普通ですよ」だったそうだ。

「もちろん、人によっては聞いちゃいけないことや、聞いてほしくないことはあると思います。でもそれはどんな人にもありますよね。障がいのことも普通に聞いていい関係性であっていいと思います。池さんも『僕もそう思う』って。テレビや記事を通して、私なりに選手と築き上げてきた関係性を見てもらったり、私なりの視点で選手たちの素顔を発信していければいいなと思っています」



パラスポーツの置かれている環境を1mmでも動かしたい――。

東京パラリンピック開催まで、あと1年半。だが、東京パラリンピックはあくまでもそのきっかけにすぎないと彼女は言う。大事なのは、2020年よりも、その先にある、とも。

これから彼女は、何を見て、何を感じ、何を伝えてくれるのだろう。
久下真以子は歩き続ける。心を通わせたアスリートたちと共に、目指す世界に向けて――。

<了>

(C)UZA

[PROFILE]
久下真以子(くげ・まいこ)
1985年8月31日生まれ、大阪府出身。同志社大学在学中にアナウンサーを志し、卒業後、四国放送、NHK高知放送局、NHK札幌放送局で、番組のメインキャスター、スポーツキャスター等を務める。2015年よりセント・フォースに所属。主な出演番組は、フジテレビ「ホウドウキョク」、GAORA「ファイターズ中継」日本テレビ系列「全国高校サッカー選手権大会」など。2019年1月25日より、『PARA SPORTS NEWS アスリートプライド』(BSスカパー!)のキャスター・レポーターを務める。またアナウンサー業を続ける傍ら、主にパラスポーツの取材・執筆活動も精力的に行っている。NPO法人 国際障害者スポーツ写真連絡協議会(『パラフォト』) 理事。

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野口学

約10年にわたり経営コンサルティング業界に従事した後、スポーツの世界へ。月刊サッカーマガジンZONE編集者を経て、現在は主にスポーツビジネスの取材・執筆・編集を手掛ける。「スポーツの持つチカラでより多くの人がより幸せになれる世の中に」を理念とし、スポーツの“価値”を高めるため、ライター/編集者の枠にとらわれずに活動中。書籍『プロスポーツビジネス 私たちの成功事例』(東邦出版)構成。元『VICTORY』編集者。