感染拡大の遠因に柔道界の二重権力構造

全柔連は日本での新型コロナウイルス感染拡大を受けて、3月30日から事務局を原則、在宅勤務としていた。しかし、その翌日の31日。複数の職員と関係者が集まって、4月の主催大会の開催のあり方について議論する会議を開催。多数の報道陣も同じフロアに集まっていた。全柔連は「誰がどの時点で感染したかの特定は困難な状況」としているが、在宅勤務が有名無実化し、多数の職員が集まる会議が開催されていたことが感染拡大の要因の1つと考えられる。

ではなぜ、この日に会議を開く必要があったのか。そこには全柔連だけでは決められない、柔道界特有の二重権力構造がある。

少し歴史を紐解きたい。柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎師範が講道館を創設したのは明治15年。この講道館から競技としての柔道を統括する団体として派生したのが、昭和24年に創立された全柔連だ。2つの団体はともに長く嘉納師範の子孫が館長と会長を兼務してきたが、現在はJOC会長も務める山下泰裕氏が全柔連の会長。講道館の館長は上村春樹氏が務める。文京区内の同じビルに居を構えるとはいえ、別組織なのだ。

そして、31日の会議の議題だった全日本選手権。体重無差別で日本一を争うこの大会は講道館と全柔連の共催だ。すでに国際大会では廃止されている「有効」があるなど、伝統的な「講道館ルール」に近い形で行われるのも特徴だ。戦後まもない昭和23年に第1回が開催されて以降、世界選手権開催のために中止された一度を除き、毎年行われている。さらに昭和50年以降は、昭和天皇の誕生日だった4月29日に日付が固定されてきた。

この全日本選手権など、4月に行われる主催大会の開催是非を議論するため、全柔連は3月に入って新型コロナウイルスの対策委員会を設置した。3月6日、全柔連は、まず自らが単独で主催している全日本選抜体重別選手権(4月4~5日・福岡市)の無観客開催を決定。そして、さらなる感染拡大を受けて3月27日には、この大会の延期を決めた。しかし、講道館との共催となる2つの大会、男子の全日本選手権(4月29日・千葉市)と全日本女子選手権(4月19日・横浜市)については、「講道館の意向を伺わなければ決められない」として、判断は先送りとした。27日の時点で会議はすでに3度目。全柔連側はすでに「延期やむなし」の方向性は固まっていた。一方の講道館側は例え無観客ではあっても、ぎりぎりまで予定通りの日程での開催を模索。こだわったのは前述の通り40年あまりに渡って固定してきた4月29日という日付だった。

3月31日、午前に行われた会議で全柔連側は延期の方針を再度確認。午後、全柔連と講道館、それに後援する新聞社と中継局の関係者が集まった実行委員会で全日本選手権の延期がようやく正式に決まった。「全日本王者の称号は毎年つながなくてはならない。歴史、文化を軽視してはいけない」と講道館・上村館長。
伝統を重視する姿勢が延期判断を遅らせたことを物語る。

もちろん、この時点で、講道館と全柔連、そして詰めかけていたマスコミ関係者も新型コロナウイルスの感染が身に迫る危機だったことには気付いていない。しかし、結果論にはなるが、原則在宅勤務の方針を前日に打ち出しておきながら、多くの関係者を集めて行った31日の会議が感染を広める一因になったことは否定できないだろう。

その後の全柔連のまとめによれば、職員の1人に最初に発熱の症状が現れたのは会議翌日の4月1日。さらに翌日の2日夜から3日朝にかけて11人もの職員が発熱。3日から全員自宅待機とし、事務所を閉鎖したが、すでにウイルスは蔓延していたことになる。

そして、4日、ついに職員1名の感染が判明した。

感染判明後の対応もずさん

感染判明後の全柔連の対応もまずかったと言わざるを得ない。職員のプライバシーを理由に氏名の公表を控えたことは理解できるが、他にも10人以上に発熱の症状が出ているにも関わらず、これらの職員とマスコミ関係者の濃厚接触の可能性については、最初の発表から数日経つまで明らかにしなかった。

さらにこの期間に全柔連事務所に出入りがあった別組織の関係者などが感染者の氏名など情報の開示を求めても同様の対応だったという。全柔連が取るべき対応は、マスコミや、それ以外の関係者から更なる感染拡大を防ぐために、濃厚接触の可能性を知らしめ、注意喚起をすることではなかっただろうか。
全柔連の対応を批判する声も当然と思われる。

その後、12日、中里壮也専務理事の感染が判明し、事務局は事実上機能停止状態となった。全柔連は15日に予定していたWEB会議での常務理事会の延期を決定。東京オリンピックの延期により、代表選考を見直すのかどうかの議論は先送りになった。

命、健康より優先されるものは無い

しかし、この発表を受けてのマスコミ各社の論調には疑問符が付く。

常務理事会で議論される予定だったのは、すでに決まっている13階級の内定選手を維持するのか、やり直すのか?そして、丸山城志郎、阿部一二三が熾烈な争いを続けてきた男子66キロ級の代表決定方法。多くのメディアは一部の内定選手や、内定選手の所属先関係者の言葉を引用し、「選手が犠牲になっている」と論じた。

しかし、連日、全国で1日の感染判明者の数が最高を更新し、緊急事態宣言が出され、医療崩壊の瀬戸際に立たされている現状。しかも、全柔連は事務局職員の多くが感染し、入院を余儀なくされている人もいる。この状況下で人の命や健康を守ること以上に選手の権利、「アスリートファースト」が優先されるはずは無い。

確かに宙ぶらりんな立場のまま長い時間を過ごすことになる選手たちには酷な状況ではある。しかし、世界の現状を考えれば国際大会の再会のメドは未だ見えず、選考をやり直すにしても公平性を保てる保証もない。この状態で代表選考について議論し、拙速に決めることが結果的には選手の不利益につながるとも考えられる。まずは、世間同様、感染拡大防止のために何ができるか、そして感染者の一刻も早い回復が優先されるべきだ。

問われる精力善用 自他共栄

目に見えぬウイルスへの恐怖と先が見えぬ閉塞感に包まれるなかで、柔道界の希望は選手たちの行動だ。この数日、選手たちがSNSを通して社会に伝えている行動には心を動かされる。

リオデジャネイロ五輪の銅メダリスト、羽賀龍之介選手が始めた「文武両道チャレンジ」。多くの人が自宅待機を強いられる状況下で、自分のバイブルとなる本などをSNSで紹介、子どもたちを中心に勉強も大事だよと訴えかける内容だ。

リレー形式でバトンを受けたのは東京五輪の代表に内定している原沢久喜選手。原沢選手も愛読書を紹介、次につないだ日本代表の鈴木桂治コーチは趣味の釣りの魅力を紹介した。これに呼応するように多くの柔道家たちが、自宅での簡単なトレーニング方法などを次々とSNS上にアップし、多くの反響を受けている。

対人競技である柔道の選手たちは今、感染拡大の影響をまともに受け、ほとんどの道場で稽古が禁止され、自宅以外ではトレーニングさえままならない状況に追い込まれている。この状況下で取り組みを始めた羽賀選手は「柔道家である自分に今何ができるかを考えた」と話している。

根底にあるのは、「精力善用」「自他共栄」。自分の持つ力を世の役に立つために使い、互いに信頼し助け合うことで自他ともに栄える世の中にしようという、嘉納師範が掲げた指針だ。歴史や伝統、そして選手の権利を主張するよりも、今は、この指針が持つ意味を柔道界全体で改めて心に刻むべきではないか。


VictorySportsNews編集部