内田正人との出会い

 生まれ育ちは大阪・枚方市——地元で彼を知る幼馴染は「勉強そっちのけで野球と空手にのめり込んでたな。でっかい図体してピアノも習っていてなかなかの腕前なんですよ」と話す。
 
 井上がアメフトに出会ったのは、中学生のときだという。「たしか、叔父さんがアメフトやってたんじゃなかったかな」。いずれにせよ、中学3年の時点で、すでに身長180センチを超えていた井上は、大阪の強豪・大阪産業大附属高アメフト部に入り、日大フェニックスに進んだ。
 
 そして、大学1年でいきなり甲子園ボウルを経験した。関学に敗れはしたが、長らく低迷していた日大を徹底的なスパルタ式猛練習で鍛え上げた内田監督が就任4年目で久しぶりに甲子園ボウルにこぎ着けた年である。当時のチームの雰囲気はどんなものだったのか。OBに聞いた。

「タックルをかわしても、ダッチダウンしても褒められもしないし、誰も喜ばないんですよ。そんなの当たり前だからって。試合に勝つのも当たり前。『甲子園ボウルで日本一になるまで喜ぶな』が内田さんの口癖で、それまでは何があってもガッツポーズひとつ誰もしない。それくらいに突き詰めた猛練習を続けていると、だんだん自信が生まれるんです。最初は練習についていくのがやっと。その、やっとを繰り返しているうちに、それが平常運転になる」

 名門復活にかけた内田は、系列校や関西の強豪校まで足を運んで、名のあるフットボーラーをスカウトして回った。ときには野球部や陸上部にまで出向き、これはと思う人材がいれば熱心にリクルートしたそうだ。そんな連中が厳しい練習量で鍛え上げられるのだから、強くならないわけはなかった。

寮長

 それでも、その後の3年間は甲子園ボウルにたどり着くことなく、井上は現役を終えた。彼には、選手としての特別な才能は備わっていなかったのだ。日本一になること以外に関心がなく、ろくに就職活動もしていなかった井上を見かねて、コーチになることを条件に日大事業部への就職を進めたのは、内田監督だった。

 朝から夕方までは、事業部で校内の自動販売機の設置や清掃や警備など業者と交渉する仕事に就き、夕方からはグラウンドでコーチとして指導する。ちょうどアメフト部員の寮長が退職することになったため、井上はみずから志願し、住み込みの寮長として学生たちの面倒をみた。

「監督の厳しい指導で、4年間ずっとしんどい思いをしてきて、コーチとして残りたがる奴なんて、ほとんどいないですよ。やっと終わって社会人になれるのに、またコーチとしていちからやり直しなんて普通は考えません。夜まで寮で部員の世話までするんですから、よっぽどフェニックスが好きなんだろうし、彼なりの恩返しのつもりだったんでしょう」(前出・フェニックスOB)

 日大を17度の学生王者に導いた偉大なカリスマ指導者・篠竹幹夫は、生涯結婚することなく寮に住み込んで、文字通り部員たちに身体を洗ってもらう裸の付き合いで、常勝・フェニックスを作り上げた。井上もその姿を目指したのだろうか(5年後、彼は結婚し、寮を離れる)。
 
 内田監督は、井上に日大豊山高アメフト部の監督をするよう指示した。桜上水のグラウンドでは大学生以外にも、日大桜ヶ丘と日大豊山の高校生たちも練習をしている。そこで井上は大学生と高校生の両方を指導することになる。ヘルメットや防具はきちんと並べる。集合と言われたら走って集まる。そんな基本から教えるレベルだった高校生たちのなかに高校2年の宮川の姿もあった。

第9回につづく

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全国紙記者、週刊誌記者、スポーツ行政に携わる者らで構成された特別取材班。