180センチ、68キロ、全身筋肉

 人生で一番、身体が仕上がっていたときですか。そりゃ、ボクシングで現役選手だったときです。180センチで、普段は68キロ前後。ライト級は61.2キロ以下がリミットなので、試合前には7キロ落としていました。シンプルな目的があるから、現役のときは体重落とすのもそんなに大変じゃないんですよ。いや、嘘だな。けっこうきつかったので、途中からスーパーライト級に上げました。リミットは、63.5キロ以下です。
 
 減量って、結局はケツに火が点くかどうかでしょう。きっちり目的があれば、誰だって頑張れると思います。世界チャンピオンになるためには、その前に日本チャンプか東洋太平洋のベルトを巻かなきゃならない。そのためには、4回戦から10回戦まで勝ち続けなきゃならない。そもそも試合に出るためには、体重を落とす必要がある。そんな感じで、目的から逆算してやっていました。

 あんまり難しく考えなくても、単純な考え方でうまくいっちゃうものですよ。おれは、毎日の練習もそういうモチベーションでやっていました。一緒にトレーニングしている他の練習生たちに負けたくないから、一番熱心に練習する、とか。そういう、単純な話。

450分の1

 ガキの頃から、身体を動かすのは好きでした。サッカーもやりましたけど、一番は野球。少年野球ではピッチャーで、将来は巨人のプロ野球選手になるつもりでした。運動神経には自信があったので、そのときはなれると思っていましたね。

 ちゃんと、子供なりの根拠もあったんですよ。自分の学校はマンモス校で、1学年に450人くらいいました。でも、小学5年のスポーツテストで1級をもらったのは、おれだけ。凄いでしょ。でも、まあ同じぐらいの時期から、煙草も吸っていましたが。

 3歳のとき親が離婚して、親父もあまり家にいなかったので、じいちゃんとばあちゃんが親みたいなもので。夕方になると、じいちゃんは自分でツマミを作って、明るいうちから飲んでいました。ばあちゃんが、おれの夕食だけは作り置きしてくれてね。貧しかったので、ご飯に魚の干物とかそんなのばっかり。

 寂しがりやなのは、昔から変わっていません。野球をやっているときは、周りにチームメイトがいるけど、空が暗くなったらチームメイトはいなくなるじゃないですか。だから、野球で得られたのは「昼の友達」。

 その友達がいなくなる夜には、また別の「夜の友達」を作って。それで、煙草が登場するわけですね。あと万引きとか、そこらの不良がやりそうなことは、だいたい全部やって。
同い年の奴らに負けた記憶はないので、喧嘩は強いほうだったと思います。

一瞬のガキ大将

 いっぱしの不良を気取って、最初の頃は楽しかったな。でも調子に乗っちゃって、めちゃくちゃ威張り散らしていたので、ガキ大将からの転落も早かった。

 ある日、ちょっと年上の不良たちに集団リンチでべこべこにされて。やられただけならまだ大丈夫だったんですけど、それだけじゃ、すまなくなって。

 ようは、おれは周りの友達たちにも威張り散らしていたわけですよ。だから、上の不良に命令されただけじゃなくて、皆が、おれにうんざりしていたんでしょうね。その日を境に、いきなり誰からも相手にされなくなっちゃった。

 いろんな奴に話しかけても無視されて、「お前、なんで無視するんだ」って言ったら、今度は「(集団リンチを仕切っていた先輩に、大嶋にからまれたと)言うよ」って。そんなふうになっちゃうと、こっちも小学生のガキですから、もう何も言えない。ほんとに毎日、詰まらなくなって。

 だから、地元の中学がマンモス校でよかったなあ、とは思いますね。ずいぶん前から——「ゆとり教育」とか、そのあたりからなんですかね——クラスもなにも「少人数制が良い」って風潮があるじゃないですか。先生の目が行き届く、とか、子供たちが親密になる、とか。
 
 でもそれ、マイナスの面もあるかもしれないですよ。人数が少ないと、先生と生徒の距離間とか、生徒同士の関係性が近くなる。先生との関係性が良いとき、友達と仲が良いときは最高でしょうけど、もし関係性が悪くなったら、そのとき人間関係のサークルが狭いと最悪ですよ。まったく逃げ場がないから。
 
 もちろん、おれの場合は自分が悪いんですけど。皆にいばりちらして、完璧に無視されるようになったでしょう。けれど中学がマンモス校、10クラスぐらいあったおかげで、おれの過去を知らない人たちが、学校の中にいっぱいいたわけ。だから、新しい友達には、過去の反省を活かしてね。あんまり、威張りちらさないように反省して。これがもう、昔を知っている連中しかいない中学だったら、学校なんかすぐに行かなくなっていたでしょうね。

白菜とニンジン

 小学5年から煙草を吸っていても、野球だけは熱心にやっていました。小学校を卒業する前に肘を壊しちゃったんで、中学ではピッチャーからサードに転向。この間も、煙草は吸っていました。それなのに当時は、一生懸命に野球をやっていれば、高校で甲子園に出られると思い込んでいて。

 最初の転機は、たぶんそこですね。ナンパする間もなく、甲子園に振られちゃうんです。野球で高校に行けると思っていたら、おれだけ行けなくて。ツルんでいた友達は皆、高校のテストに合格して……けど、ほんとにあいつらは、いつ勉強していたんだろう? びっくりしましたね。おれだけ全部落ちて、高校生になれなかったんです。
 
 高校生じゃないんだから、もちろん甲子園に出る資格もない。春ぐらいの時期は、学校終わりに遊んでくれた友達も、高校で新しい仲間が出来るようになるし、また、ひとりぼっちです。

 寂しいじゃないですか。おまけに暇だし。駅前に行くと、ちょっと年上の不良がたまっていたから、遊んでもらって、一緒に悪さもして。あるとき、軽い感じで誘われて、ヤクザの組事務所に遊びに行きました。
 
 革張りのソファとか、やたらと立派な机とか、そういうのには何とも思わなかったな。何に感動したかって、部屋住みの若い衆とか兄貴分とか、事務所に行けば、かならず誰かがいるところです。いつまでだっていていいし、時分どきになったら、近所の中華料理の店からラーメンとか、かつ丼とかが届いて。やっぱり、おれは食事に惹かれるのかな。両親がほとんどいなかったから、誰かとワイワイ食べたいんです。小学生のときに友達の家でご馳走してもらった、白菜やニンジンがたっぷり入った鍋の味は今でも忘れられません。

中編につづく

大嶋宏成

1975年、茨城県生。中学を卒業してすぐに暴力団構成員となる。16歳で起こした傷害事件で、小田原少年院に送致。その後、胸の刺青を皮膚移植で消して、ボクサーを目指す。1997年、プロテスト合格。11連勝を経た2000年、リック吉村に挑んだ日本タイトルマッチで、後楽園ホールの入場者数レコードを更新。元祖刺青ボクサーとして知られる。引退後は、俳優として活動しながら、居酒屋「いきや」を経営。YouTubeチャンネルにて「大嶋宏成のごっつぁんすTV」を好評配信中。