元祖刺青プロボクサー大嶋宏成 vol. 1 負けん気は“一流”でも、心の中は孤独の不良少年【身体と私】

お尻と内股

 皆が毎日、高校に行くように、おれは組の事務所に行って。勉強のかわりに、花札やって。部活の代わりに、喧嘩かな。今の不良の子たちは、かなり鍛えているでしょう。皆、ジムに行ったり、ボクシングやったり、総合格闘技やったり。体育会上がりの悪い人もいたけど、昔の不良はまだ細かったから。筋トレやっているやつも少なかった。
 
 喧嘩のコツを訊かれても、先手必勝としか言えませんね。おれ、口ベタだから、掛け合いとかやったことないですし。

 甲子園とか野球選手の夢を諦めて、ヤクザになることにしたわけじゃないですか。じゃないですか、って言われても困りますよね。まあ、自分でそう決めたわけです。だから、刺青もいれたし。柄は、金魚ですね。女運と金運が良くなるって言われて、胸に。
 
 どっちも、プロボクサーになるときに取りました。レーザーで消すのは時間もお金もかかるので、お尻と内股の皮を、胸に移植して。これなら手術は1日で済みます。

 でも、これは先の話ですね。ヤクザになってからは、名前を売るには喧嘩だと思っていたので、先手必勝でどんどんぶん殴って。そんなことをしていたら、遅かれ早かれ取返しのつかないことになりますよね。おれは16歳で少年院に入ったので、早くて逆によかったかもしれない。

 筋トレも、ここで覚えました。それ以外にやることもないので、毎日スクワット1000回、腕立て1000回とか。食事は麦飯に魚、おひたし。それこそ、小さい頃に祖父母の家で食べていた食事と一緒でしたね。

目玉焼きとサバ缶

 少年院を出て、プロボクサーになるまでに5年かかりました。刺青がなければ、もっと早かったでしょうが、べつに後悔はしていません。反省はしていますけど。

 ボクシングは、本当に面白かった。ルールがあるから正々堂々と戦えるし、それで誰かを倒せば、拍手までもらえるわけじゃないですか。プロテストでダウンをとったときに、いけると確信しました。デビューした日は1997年の7月21日。後楽園ホール、最高でしたね。これで、バイト暮らしも卒業だとか、さっそく勘違いして。
 
 それまでは、配送の仕事で生活費を稼いでいました。深夜にトラックで印刷所につけて、新聞を積み込み、販売店に届ける。空になったトラックには雑誌を積み、今度はコンビニへ。朝夕の2回出勤なので、その間にジムへ行って練習していました。手取りは、毎月18万円ぐらいだったと思います。
 
 大変だったのは、プロボクサーになってからですね。練習時間を増やすと、稼ぐ時間は減るし、プロって、それでお金をもらっているという意味ですが、ボクシングの世界はちょっと違いますから。必死に練習すればするほど稼ぎが減って。米だけは茨城の実家から送ってもらっていたので、目玉焼きと安売りのサバ缶でタンパク質をとって。

早すぎた人気

 毎日くたびれましたけど、自信はありました。ルールのある、合法的な殴り合いって気分でやっていましたから。まあ、そのままいけちゃったところに、今から振り返れば落とし穴というか、ボクサーとしての自分の限界があったのかもしれません。
 
 でも、いけちゃったから、当時の気分としてはしょうがないんですよ。あんなに順調だったの、何もかもうまく運ぶことなんて人生で初めての経験だったし。プロデビューして、次の年の11月に東日本新人王になって、その1カ月後には全日本新人王も獲って。

 元ヤクザだとか、皮膚を移植して刺青を減らしたんだとか、話題作りをしようと狙って言ったんじゃなくて、ただ隠すのが嫌で素直に答えていたら、応援してくれる人がいっぱい現れて驚きましたね。

 新人王を獲ってからは、ボクシングをやっているだけで食えるようになりました。とにかくまずは日本チャンピオンのベルトを期待されていたので、パンチをガンガン振って、11連勝、日本ランク1位。その勢いで、日本タイトルマッチに臨みました。

年収2000万

 リック吉村、上手だったですねえ、パンチがぜんぜん当たんないんだもん。殴り合いじゃなくて、しっかりスポーツをやられた感じでした。

 こっちは、ぶっ殺してやると思って突進しているのに、向こうはひらり、ひらり。「喧嘩はしないよ」、「スポーツとしてのボクシングはこうだよ」って、レッスンを受けているうちに、試合終了。フルマークの判定負けなのに、倒されたわけじゃないから、こっちも消化不良で。
 
 そこから、スポーツとしてのボクシングを突き詰めれば、別の可能性もあったかもしれませんが、まあ、甘かったの一言です。はっきり言って、日本チャンプのベルトも巻いていないボクサーなんかに、普通は、大きなスポンサーなんて付かないですよ。
 
 でも、おれの場合は、ボクシング以外のパーソナリティの部分で、思い入れを持ってくれる人たちに恵まれて……恵まれ過ぎちゃったんですね。小学生のときの、「あれ」と一緒です。チャンピオンになる前に幸せになっちゃって、勝手に調子に乗って。
 
 二人三脚でやってきたトレーナーの山本さんが独立することになったので、付いて行きました。これがね、待遇が悪くなるのに付いて行ったという話なら美談かもしれないけど、全然そんなことなくてね。ははは。

 めちゃくちゃいいスポンサーがいて、おれなんか家も車も貰って、ファイトマネー以外に月給までくれるって話だったんです。チャンピオンでもないのに、いきなり2000万円近い年収になっちゃった。

1億円を飲み干す

 それでも、2001年の佐竹政一(OPBFスーパーライト級タイトル)戦までは、ちゃんとボクサーだった、というか、必死にやっていました。だから、あの試合では喧嘩じゃなくて、正統派のボクシングをやり切った自負もあります。

 しっかり足も使って、ジャブでリズムを作り、ボディで削る。でも粉砕されましたね。佐竹の出入りのほうがおれより速く、おれより正確なジャブを差し、おれよりボクサーとして完成されていました。その後、彼はリック吉村や坂本博之も下しています。
 
 自分のプロボクサーのキャリアとしては、この佐竹戦がハイライトだったかもしれません。それまで騙しだまし付き合ってきた慢性的な腰の痛みに加えて、右目の変調(引退までに3度手術)も出てきて……モチベーションが維持できないのに続けていたのは、金の面が大きかったでしょうね。情けない話ですけど。山本さんのジムに移ってからの5年間ぐらいで1億円近く貰ったのに、飲み代でほとんど使っちゃいました。
 
 当時は、付き合っていた女と一緒に六本木に住んでいて。もう、ここまで読んでくれた皆さんは、おれの調子のよさに気付いているでしょうから、恥ずかしげもなく言っちゃいます。カッコつけなんで、仲間や知り合いにおごりまくってね。手元には何にも残らずに引退、女にも振られ、みたいな。

後編につづく

大嶋宏成

1975年、茨城県生。中学を卒業してすぐに暴力団構成員となる。16歳で起こした傷害事件で、小田原少年院に送致。その後、胸の刺青を皮膚移植で消して、ボクサーを目指す。1997年、プロテスト合格。11連勝を経た2000年、リック吉村に挑んだ日本タイトルマッチで、後楽園ホールの入場者数レコードを更新。元祖刺青ボクサーとして知られる。引退後は、俳優として活動しながら、居酒屋「いきや」を経営。YouTubeチャンネルにて「大嶋宏成のごっつぁんすTV」を好評配信中。