WATS GOIN' ON〔Vol. 9〕カツ丼とラーメンとバスケットボールな青森ワッツ中興の祖

「でも、青森に帰ってきたときとは、ちょっと状況も変わっていたんです」

 下山がニヤリと言う。

「北谷さんは、もう子供も生まれてお父さんになっていて。でも、いろいろ周囲の人たちの話も聞きましてね。北谷さんの奥さんは学校の先生で、仕事は安定していらっしゃる。その上、彼のバスケットへの情熱にもとても理解があって、素晴らしいかただと。だから、もう勝負です」(下山)

 そして2017年の11月、1カ月以上にわたる下山のプロポーズが功を奏し、北谷は勤め先を辞め、青森スポーツクリエイションに入社した。

「最初は子供たち、ユースのチームで教えました。まったく手探りですね。私はずっとプレーヤーだったので、コーチの経験もなかったですし」(北谷)

 けれど、そのときは刻々と近づいていた。

 北谷が入社した2017‐18シーズン、ヘッドコーチとしてチームを率いていたのは、3シーズン目となる佐藤信長。29勝31敗に終わった前シーズンの雪辱を期していたが、開幕戦から8連敗とワッツはまるで振るわなかった。「チームを改革するタイミングはもう、ここしかなかった」と、下山は言う。まだシーズン途中だった翌18年の2月26日、青森ワッツは佐藤信長を解任し、後任に北谷を据えたのである。

「もう、やるしかなかったですね。信長さんがいなくなると決まったわけですから。これまでブースターの立場から、ずっとワッツを見てきて、たしかに負けは込んできていましたが、信長さんが目指していた『全員バスケット』の方向性は間違っていないと思っていました」(北谷)

 そこで北谷は、選手たちひとりひとりと、まずはじっくり話し合うことにしたという。

「コーチの経験はありませんが、選手としての経験から、負けが込んでいるチームに必要なことのいくつかは分かります。信長さんはチーム内の連携を習熟させるために、スターティングメンバ―をほとんど固定していました。それで勝てれば良いのですが、私がヘッドコーチになったタイミングでは、まだ結果に繋がっていませんでした」(北谷)

 選手たちのメンタルから手をつけた北谷は、ひとりひとりと話し合うだけでなく、スタメンをタイムシェアし、多くの選手に出場機会を与えることで、チーム全体のメンタルを整えることを目指したのだった。結局、このシーズンは18勝42敗で終えたが、「チームの雰囲気は良くなった」(下山)。

ライセンス

 だが、ワッツと北谷の苦難の道のりは始まったばかりだった。下山は、翌2018-19シーズンを、このまま「北谷体制」で戦うつもりだったが、Bリーグの規定がそれを許さなかったのである。

「昨日まで、現役のアマチュア選手だった自分が、いきなりワッツ(青森スポーツクリエイション)の社員になって、その3カ月後には、プロチームのヘッドコーチになって……私は、まだBリーグのコーチライセンスを持っていなかったんです」(北谷)

 シーズン途中でバトンを受け取った2017-18シーズンこそグレーゾーンの扱いで乗り切ったが、2018-19シーズンはそうもいかず、北谷は形式上アソシエイトヘッドコーチの扱いとなり、その間にコーチライセンスを取得した。だが、4シーズン続いた主導体制で、北谷は結果を残すことができなかった。

「仰る通りです。必死にやりましたが、ヘッドコーチ、アソシエイトヘッドコーチとして、私は青森ワッツを強豪に育てることができませんでした」(北谷)

 下山は、北谷ではなく、運営会社の社長だった自身にこそ責任があると語った。

「選手たちも、北谷さんも、チームスタッフも与えられた環境の中で、死に物狂いでやってくれていました。その意味では、戦犯は私です。先ほど、次の船長と船が見つかるまで、タグボートを沈ませないことが、自分の役目だと申し上げました。北谷さんはヘッドコーチとして毎年、私に提案をしてくれました。戦術上の理由から欲しい選手、有能なコーチ、練習環境の改善……おそらく、北谷さんの望む通りの補強や環境改善をおこなえば、青森ワッツは皆さんの期待に応えられたはずです」(下山)

 一呼吸おいた下山の顔には、悲しみが湛えられていた。

「良い選手を獲得するにも、有能なコーチを雇うにも、必要なのは情熱と資金です。ワッツには大きな情熱がありましたが、資金はありませんでした。もし、あの段階で、ワッツ(の運営会社)の責任者である私が、さらなる借り入れをして強化策をとったなら、あっという間に、はっきりいえば翌年には破綻し、青森ワッツというチームは消滅していたと思います。ですから、私は強化策の大半を却下せざるを得ませんでした」(下山)

WATS GOIN' ON〔Vol. 11〕につづく

VictorySportsNews編集部