WATS GOIN' ON〔Vol. 8〕30連敗 最下位 違反行為 それでもシーズンは続く 青森ワッツが追い込まれた苦境

タグボート

 もともとは、地域活性化のために結成された青森ワッツ。その当初の目的を超えて、Bリーグへの参加を決断したとき、運営会社の社長であった下山保則が心に刻んだルールがあった。〔WATS GOIN' ON Vol. 8〕の記述を再掲する——青森スポーツクリエイションは、青森ワッツを将来にわたって保持し続けられる経営資本とビジョンを持つ「船長」と「次の船」が決まるまでのタグボートである。「船長」と「次の船」が見つかるまで、とにかく沈まずに航海を続けることを使命とする——。

 では、青森ワッツにおける「船長」とは誰だろうか。チームの運営会社である青森スポーツクリエイションの社長は、船長かもしれない。けれど、それだけでは不足だ。チームを支えるのではなく、チームを導き、指揮を執るヘッドコーチも船長に等しい。そのヘッドコーチと運営会社・社長の間を取り持ち、双方の意見を汲み、ふたりの船長を納得させる役回りを担う、ゼネラルマネジャーも重要だ。

最高のアマチュア選手

 下山が、北谷稔行を見つけたのは早かった。

「ワッツが出来たとき、一番最初のbjリーグに参加するときからですね。そのときは『選手として来ないか』と声をかけてもらいました」(北谷)

 今は選手ではなくなり、すこしだけ肉がついた。昼飯に、かつ丼とラーメンを一緒に食べるのでは当然だ。

 1980年に鶴田町で生まれた北谷は、青森県を代表するアマチュア選手である。弘前実業高校から拓殖大学に進み、1999年の全日本大学選手権で準優勝。JBLの実業団チームからの誘いを断り、青森県国民健康保険団体連合会に就職し、地元に戻った。

「私は両親を早くに亡くし、祖母に育ててもらいました。プロというか、実業団でのプレーにも興味がありましたが、ずっと世話になってきた祖母と一緒に暮らしたいという気持ちが強かったので、実業団でのプレーを諦め青森で就職しました」(北谷)

 だからといって、北谷はバスケット選手であることをやめたわけではなかった。日々の勤務を終えた後は夕方から練習を続け、14年連続で国民体育大会の青森県代表チームに選出されるなど、日本バスケット界にその名を轟かせるアマチュア選手となっていた。

別の喜び

「2012年に(下山から)選手として声掛けをいただいたときに、辞退した理由は、bjリーグの先行きが不透明だったからです。あとは、単純に年棒のことも気になりました。JBLの実業団からの誘いを断って、青森でアマチュア選手としてやっていくことに決めたのに、JBLから分裂した先のbjリーグでプレーすることに、そこまでの魅力を感じられなかった、というのが、当時の正直な気持ちです」(北谷)

 それでも、北谷はワッツのブースターになった。

「選手としてワッツでプレーするかどうかと、自分が暮らしている地元の青森に、大好きなバスケットのプロチームが生まれたということの喜びは、まったく別ですよ。ブースターとしては、ずっとワッツの大ファンです」(北谷)

 そして2017年、3×3の日本選手権で3位入賞を果たした北谷に、ふたたび下山が声をかけた。今度は選手としてではなく、青森にバスケットを根付かせるための指導者として「ワッツの運営会社である青森スポーツクリエイションの社員になってほしい」というオファーだった。

 下山が、その思いを語る。

「やっぱり、チーム運営に行き詰っていたんですね。私には、バスケットの経験がない。青森ワッツを設立して、最初はお金も集まったし、県民の皆さんの支持も得た。でも、全国で試合をして、他のチームのフロントの皆さんや都道府県のバスケット協会の皆さんと交流しても、お互いにピンとこないんです。多くは、私のほうの問題だったと思いますが、深い話にならない。
 そういうとき、『青森』『バスケット』というキーワードで、先方の口から出るのは必ず『北谷さん』なんですね。やっぱり、ワッツが今後もやっていくためには、どうにか、彼に参加してもらわないとダメだ、未来がないんだと。今だから正直に言いますけど、もちろん彼の家庭のことも考えました。bjリーグのときには断られていますしね。じゃあ、今回は十分な金額の給料を支払えるかといったら、やっぱりそんなことはないわけです」(下山)
 
 実際、北谷は誘いを断り続けたのだった。

WATS GOIN' ON〔Vol. 10〕につづく

VictorySportsNews編集部