オールスター、ヒップホップ、ナイキ

 では、日本の若者たちの間で、オールスターはどのような格付けをされてきたのか。〈プレミア化〉という視点から切り取れば、80年代日本で巻きおこった渋カジから派生したヴィンテージブームに注目するのが妥当だろう。

 リーバイス(Levi's)の501が、時代ごとのディテールの変化によって、付加価値が付けられていったように、スニーカーにおいては誕生から長きに亘る歴史を持つオールスターこそが、マニアによる解剖(≒格付け)の対象となっていった。

 上述したヒールパッチにチャック・テイラーの名が刻まれているのは70年代中盤までに生産されたモデルで、これらがまずヴィンテージ市場で高額で取引されるようになった(60年代までのものと、69年以降では、ヒールパッチに付く☆の数や®マークの有無などが異なる)。

 ただ、時代によって濃淡や風合いがはっきりと異なるデニムパンツと比べると、素材もフォルムも誕生からほぼ変わらずリリースされ続けてきたオールスターの付加価値は、〈ファッション〉でいえば、より分かりづらくマニアックであった。肉眼では確認しづらいヒールパッチの些細なディテールの違いで、なぜ、それほどまでに取引価格が変わるのか理解に苦しむ読者もいるだろう。
 
1990年代は、奇妙な時代だった。遠くは戦前から続く、シュルレアリズムやスノビズムといった価値観、深層心理の発見から集合的無意識に訴える表現方法、知識が深ければ深いほどクールとされる価値基準(わかりやすいはダサい)が生き延びていたのである。

 そして同時に、近いところでは80年代のバブル期、つまりは旧世代に対するカウンターとして、キラキラした美しいものはダサく、古くボロいものこそカッコいいといった美徳意識の転換が、このムーブメントを支えてもいた(皮肉なことにバブル崩壊を招いたプラザ合意以降円高が進み、アメリカ物を安価に大量に手にできたことでブームに拍車がかかった)。

 いずれにせよ、見た目だけでなく思想においても、前時代の価値観を破壊し新たな価値観を提示することが、この時代の〈ファッション〉だったのだ。

アリーナからヒップホップへ

 ともあれ、60年代までバスケットボールシューズとして人気を博してきたオールスターは、スポーツ用品としての役目を終えると、今度は〈ファッション〉として、ストリートでより多くの人々に受け入れられ、それが現在まで続く稀有なスニーカーとなった。

 そのオールスターの後を継ぐように、脚光を浴びたのが1969年にリリースされたスーパースターをはじめとするアディダス(adidas)のバッシュだった。とりわけスーパースターはRUN-D.M.C.が愛用したことで、80年代のストリートで一世を風靡した。
 
 また1982年には、バスケットボールシューズとして初めてエアが搭載されたエアフォース1が誕生し、こちらはナズ(Nas)、ドクター・ドレー(Dr. Dre)、ネリー(Nelly)など、いつの時代でもラッパーの定番シューズとして欠かせないものとなっていった。
 
 スーパースターとエアフォース1は、ともにヒップホップカルチャーと深い結びつきを経て、バスケットボールシューズとしての役目を終えた後でも、オールスター同様、現代のファッションに欠かせないキックスとなっていった。

 そしてようやく、エア・ジョーダンの時代だ。

最初に〈エア〉があった

 1984年、ノースカロライナ大学からシカゴ・ブルズに入団したマイケル・ジョーダン(Michael Jordan)。それと同時に、バッシュならびにアパレルにおいて、既存のアイテムではなく、ジョーダンのためだけに開発されたシグネチャーライン、エア・ジョーダンシリーズがナイキ(NIKE)からリリースされた。

 しかしジョーダンが、当時からこのような待遇を受けるにふさわしい〈特別な選手〉だったのか、といえば、どうも違うらしい。ジョーダン自身ものちに「(ナイキ側の)〈エア〉という企画ありきで、それにあう選手を誰でも良いから見つけようとしていた」と語っていたという。

 この発言からも分かる通り、当時のナイキは〈現在のナイキ〉ではない。依然としてコンバースとアディダスが人気を二分する時代。コンバースはマジック・ジョンソン("Magic" Johnson)、アディダスはカリーム・アブドゥル=ジャバー(Kareem Abdul-Jabbar)といった押しも押されもせぬNBAのスター選手と契約しており、ルーキープレイヤーと異例の大型契約を結ぶ必要はなかった。

 一方、ナイキは1968年創業と歴史が浅いこともあり、資金力という点において他のライバル社より脆弱だった。当時のナイキがさらなる成功を収めるには、まだ成熟し切っていないバスケットボール界(選手との契約金が野球ほど高くない)のなかでも市場価値の低い〈ルーキー〉と破格の契約を結ぶ、という博打を打つしかないタイミングでマイケル・ジョーダンと出会ったのだ。

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我孫子裕一

我孫子裕一(あびこ・ゆういち)。1977年生まれ。『GRIND』誌の創刊編集長を経て、フリーランスのクリエイティブ・ディレクターとなる。Viceジャパンでは編集執筆にとどまらず、Amazonと共同製作したオーディブルコンテンツ『DARK SIDE OF JAPAN  ヤクザ・サーガ』(https://www.audible.co.jp/pd/DARK-SIDE-OF-JAPAN-ヤクザ・サーガ-Podcast/B09HL3QDM2)の企画立案/リポーターも務めた。