優れた監督と選手の関係 名将清宮克幸監督は何が優れているのか①

読みが当たった変化

 2001年、後藤は中学時代から憧れていた早稲田大学に入学。

 早稲田大学ラグビー部は1918年11月7日に創部。100年以上の歴史を持つ、言わずと知れた伝統校だ。誇るのはその歴史だけでなく、関東大学ラグビー対抗戦の優勝35回、全国大学ラグビーフットボール選手権の優勝16回は、どちらも全国大学最多記録である。慶應大学や明治大学との対抗戦はそれぞれ早慶戦、早明戦と称され多くの注目を集める。特に1982年の早明戦は、国立競技場歴代入場者数第3位を記録しており、これは1962年東京オリンピック閉会式、開会式に次ぐ記録だ。

 しかし後藤入学当時の早稲田大学は、大学選手権で2年連続2回戦敗退と低迷しており、1989年以降、優勝からは遠ざかっていた。しかし後藤は「早稲田が弱いままで終わるはずがない。監督や環境が変わってきっとチーム強化に取り組むだろう」と予想し、早稲田大学への進学を決断した。

 その読みは当たり、後藤が入学した2001年、早稲田大学は1989年大会でキャプテンとしてチームを優勝に導いた清宮克幸をラグビー部の監督として迎え入れた。しかし、この時、後藤は、清宮監督のことをあまり知らず「なんかすごい人らしい」といった程度の認識だったという。

悔しい日本一

 大学入学後、後藤は2年間、先輩であった田原耕太郎の控えにまわる。「田原さんとはスキル面や経験値で大きく差を感じていました。田原さんに比べ私はパスの技術レベルを向上させることができず、精度も劣っていましたし、何より、試合の流れを感じ取る力も低かったです。スクラムハーフ(以下SH)として他のメンバーと滑らかに連動する、という点で私は田原さんに大きく遅れをとっていました」。チームは清宮監督就任後、1年で大学選手権準優勝。2年目には大学選手権優勝という成績を収めたが、リザーブとして試合に出場できなかった後藤には悔しさ以外の何も残らなかった。

 田原が卒業し、大学3年。「いよいよ自分がレギュラーだ」と奮い立っていた矢先、後に日本代表となる矢富勇毅が新入生として入部した。当時を振り返り後藤は、矢富のことを「(良い意味で)現役時代最も嫌だった後輩」と語る。「矢富選手は他のポジションからの転向だったため、従来のSHの固定観念にとらわれないダイナミックなランニングが持ち味でした。普通のSHだったらパスの選択肢しかないところを、彼はランニングすることができます。それによってディフェンスはマークするランナーが増えることにより攻撃に好循環が生まれます。これを通常のSHが真似をすることは非常に困難でした。彼は誰にも真似できない強みを持っていたということになります」

 お互いライバル意識剥き出しで練習に取り組む姿は、周りから「2人とも本当にグラウンドから帰らなかった」と言われるほどであった。
 
 なんとかレギュラーの座を勝ち取ったものの、大学選手権でチームは関東学院大学に敗れ準優勝に甘んじた。悲願の連覇達成とはならなかった。さらに後藤は決勝戦の後半、矢富と途中交代させられていた。「日本一にもなれない。それだけでなく最後を後輩に取られた」。決勝で負けたこと以上の悔しさに苛まれた。

 それまでの悔しさをバネに、大学4年で悲願の大学選手権優勝を果たした。途中交代を命じられることもなく、夢にまでみた日本一の栄光を手にした。しかし、この試合でも後藤は手放しに喜ぶことができなかった。後藤は決勝戦で2本の決定的なパスミスをしており、いずれも相手にトライを許し、一時的に逆転される場面もあった。チームとしてはなんとか勝てたが、後藤は全く喜べなかったという。

 夢にまで見た日本一。しかし、それを経験してもなお後藤は自らの至らなさに目を向けていた。そして、再び次へのエネルギー源としていたのである。

清宮監督の〈分ける力〉と〈決める力〉

 清宮監督就任後の早稲田大学ラグビー部は、劇的に強くなった。後藤は清宮監督が「分ける力」と「決める力」に長けていた、と話す。

 ラグビーには、スクラム、キック、タックル、ラインアウトなど様々な要素があり、その練習も多岐にわたる。多くの指導者が、総合的にラグビーが上手くなるために多種多様な練習を課すが、清宮監督の指導は違った。清宮監督は、「こんな練習はいらない。これとこれがあれば勝てる」と言い切り、抜本的に練習メニューを見直した。

 清宮監督が重要視した練習はコンタクトとスクラムだ。そこに時間をかけることが最も費用対効果が高い、と考えていた。ただ走る、闇雲にパスを出す、といった練習は、費用対効果が低い、との理由で切り捨てられた。たとえそれが早稲田の伝統であろうとも、清宮監督は「試合のシーンを再現できていない」練習メニューを、ためらわずに切り捨てたのだ。

この背景にあるのが〈分ける力〉と〈決める力〉である。

 清宮監督はまず初めに、ラグビーの構成要素を分解。それを踏まえ得点までのストーリーを整理。整理した上で、費用対効果の高い練習は何かを特定し、それに集中。逆に不要な練習(費用対効果の低い練習)は切り捨てた。「こんな練習しなくていい。これは出来なくても良い」と言われたのは後藤のラグビー人生で初めてのことだった。

第4回につづく【スポーツとマネジメント①】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由【スポーツとマネジメント②】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由

三代侑平

筑波大学、筑波大学大学院を卒業後、新卒で私立高校教諭として入社。担任をはじめ様々な教育活動に従事。識学入社後は、マーケティング部にてウェビナーや各種広告運用を担当。現在は、社内外両面の広報として、メディアリレーションや講演会活動、記事執筆など幅広い業務に携わる。