スパイク、ふたたび

 1984年、幸運にも完成したエア・ジョーダン1を履いたマイケル・ジョーダンがNBAのコートに立った。しかし、いきなり物議を醸す。ブルズカラーの赤黒の配色を採用したこのバッシュが、NBAの規約違反と認定されてしまうのだ。

 当時の規約は〈チームのユニホームに即した靴を着用すべきだ〉というものだったので、エア・ジョーダン1を違反と認定する理由は、実のところ明確ではなかった。ようするに、シューズが派手で斬新すぎたのだ。裏を返せば、エア・ジョーダン1はバッシュとして、それまでにないデザイン性を兼ね備えていたということでもある。

 ナイキは試合ごとに課される違約金を払い続け、ジョーダンはシーズンを通してエア・ジョーダン1を履いた。この果敢な行動によってエア・ジョーダン1は売れ続け、米国市場で大きな成功を収めた。このバッシュのカラー論争を逆手にとるかのように、ナイキは赤黒、白赤黒というブルズカラー以外にも、十種類ほどのカラーバリエーションのエア・ジョーダン1をリリースすることを決める。

 しかし、入団2年目にリリースされたエア・ジョーダン2は、ジョーダン自身の怪我のため——活躍する姿をアリーナで披露する機会が減り——売り上げも前作より大きく落ち込んだ。

 そこで登場するのが、この連載1回目「野球帽をキャップに変えたスパイク・リーの熱狂」で紹介した映画監督スパイク・リー(Spike Lee)だ。新進気鋭の監督であったスパイク・リーは、エア・ジョーダン3のTVCMの監督として抜擢され、マイケル・ジョーダンとタッグを組むことになった。

 迎えた3年目、復調したジョーダンはスラムダンクコンテストに優勝し、チームをプレーオフに導くリーグ得点王の活躍をみせた。またこの年には、自身初のシーズンMVPも獲得している。

 もちろん、エア・ジョーダン3も大きな成功を収めた。それまでスポーツ業界で後塵を配してきたナイキは、マイケル・ジョーダンの活躍によって、現在の地位を獲得することとなったのだ。

BOON、スラムダンク、ドリームチーム

 エア・ジョーダン1が全米で話題となっていたとき、日本でその名を押さえていたのは、ごく一部のスケートボードにまつわる人々のみだった。実際、ナイキが日本市場において正規でエア・ジョーダンシリーズを展開するようになったのは1990年にリリースされたエア・ジョーダン5からである。

 そのため、これ以前のシリーズは並行輸入品として一部のインポートショップのみの取り扱いで、ごく少数しか日本市場には存在しなかった。この流れを大きく変えたのが祥伝社から発行されていたファッション誌『BOON』である。『BOON』は当時流行していた渋カジを深堀りし、1989年以降はヴィンテージとNBAを2大テーマとする特集号を次々に刊行するようになった。
 
 そして、真打の登場。『週刊少年ジャンプ』(集英社)で1990年から連載が始まった『SLAM DUNK』が、このブームを決定的にした。主に、〈友情/努力/勝利〉の3本柱で構成されていたジャンプの連載の中で、そのマナーを踏まえつつも、〈目の前のリアルを本気〉で生きる人々のさまを、バスケットボールを通じて描ききった名作である。
 
 2023年に公開された映画『THE FIRST SLAM DUNK』の大ヒットでもわかるように時空を超え多くの人々に愛されているが、主人公、桜木花道が最初に心奪われたのがエア・ジョーダン6で、このバッシュを履き潰した後、ショーケースに飾ってあったエア・ジョーダン1に一目惚れし、手に入れるシーンは、多くの若者の物欲を代弁していた。
 
 連載時、『SLAM DUNK』人気の沸騰に呼応するように、マイケル・ジョーダンは活躍に活躍を重ねてみせた。1991年に初めてNBA王者に君臨すると、そこから3連覇(スリーピート)。1992年に行われたバルセロナオリンピックには、〈ドリームチーム〉が参戦した。
 
 マイケル・ジョーダンをはじめ、マジック・ジョンソン、ラリー・バード(Larry Bird)、パトリック・ユーイング(Patrick Ewing)、チャールズ・バークレー(Charles Barkley)と、まさに夢のようなチームであった。
 
 そして、このドリームチームの面々のシグネチャーシューズが、オリンピックモデルとしてリリースされた。エア・ジョーダン7は、言わずもがな圧倒的な人気を誇り、すぐにプレミアとなった。

本物=マイケル・ジョーダン=エア・ジョーダン1

 『BOON』『SLAM DUNK』そして、何よりマイケル・ジョーダンのコートでの卓越した活躍。日本では、この3つの大きな要因が重なり、マイケル・ジョーダン、そしてエア・ジョーダンに対する熱が頂点を極めていった。

 バスケットボールシューズとしては、当然ながら最新モデルのエア・ジョーダンが売れたが、ファッションにおいて、それ以上の価値を持ったのは以前のモデルである。中でもシリーズのオリジナルであるエア・ジョーダン1は別格であった。

 コンバースのオールスターのプレミア化と同様に、シュルレアリズム、スノビズム、バブルに対するカウンターという価値基準に支えられていたが、エア・ジョーダン1はそれだけでもなかった。かけあがるシャンパンの泡のような水物の流行ではなく、〈本物〉を求める志向が色濃く反映されていたのである。
 
 それは一種の、ストリートの流儀だ。スケートボードをしない若者がスケシューを履けばポーザー(見かけだけの野郎)と揶揄され、ストリートでの人権を失うほどで、ルーツ=オリジナル=本物を求めるユースたちは、マイケル・ジョーダン、エア・ジョーダン1に、その理想の姿を重ねていった。

 94年に復刻されたエア・ジョーダン1も同様で、その再現度は高く、オリジナルのディテールと酷似していたが、当時はレプリカ(複製品)という言葉も氾濫していたこともあり、さほどプレミアとなることはなかった。
 
 冒頭で述べた1997年に続き、翌年もNBA王者に輝いたジョーダンは、2度目のスリーピートを達成。マイケル・ジョーダンは、実在する憧れとしてまさに〈本物の男〉になった。しかし、この絶頂期に彼は引退してしまう。
 
 引退した男は〈本物の男〉ではない。エア・ジョーダンに対する熱も、その記憶の中だけでは最高のシューズとして生き続け、市場では次第に落ち着いていくことになった。保管状態によっては、加水分解する個体も現れ、オリジナルで本物であったエア・ジョーダン1が永遠でないことを、自分たちは突きつけられた。

 また、エア・ジョーダン1=バッシュ=プレミアといった下地が完成した1995年、ランニングシューズのカテゴリーでリリースされたエア・マックス95が空前絶後の大ブームとなり、プレミア化されたスニーカー全体が社会現象となっていった。
 
 この社会現象には、エア・ジョーダンをはじめとするバッシュも巻き込まれ、完全に一般化してしまったことにより、シュールでスノップとしてクールだったプレミア化されたバッシュへの価値基準も、同時に崩れさろうとしていたのである。

(...続く)

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我孫子裕一

我孫子裕一(あびこ・ゆういち)。1977年生まれ。『GRIND』誌の創刊編集長を経て、フリーランスのクリエイティブ・ディレクターとなる。Viceジャパンでは編集執筆にとどまらず、Amazonと共同製作したオーディブルコンテンツ『DARK SIDE OF JAPAN  ヤクザ・サーガ』(https://www.audible.co.jp/pd/DARK-SIDE-OF-JAPAN-ヤクザ・サーガ-Podcast/B09HL3QDM2)の企画立案/リポーターも務めた。