WATS GOIN' ON〔Vol. 4〕青森ワッツに情熱の炎を クイッキー・デッチはマスコットにあらず そしてブルーリングス

白星発進

 2013年10月5日、青森ワッツはついに開幕戦を迎えた。場所は八戸東体育館。相手は、岩手ビッグブルズ。エクスパンション・ドラフトで引き抜いた沢口誠(ガード・フォワード)の古巣だ。1600人を超える観客が集まり、ホームの歓声を背にチームは奮闘。68対53で、白星発進を飾った。

 しかし、現実は甘くない。翌6日は同じブルズに57対80の大差で敗れ、翌週の秋田ノーザンハピネッツとの連戦は2連敗、続く新潟アルビレックスBBとは1勝1敗と、ぎりぎりの試合展開が続いた。

 結局、52試合を戦って、27勝25敗。チーム発足初年度は、東地区11チーム中6位の結果で幕を下ろした。手放しで喜べる成果は出なかったが、落胆すべき失態でもない。ホームの26試合では、4万人を超える動員を叩き出し(1試合平均/1638人)、観客動員数は、リーグ全21チーム中7位。ベストブースター賞を受賞した。

 開幕早々に、新人ドラフトで指名した原毅人(ポイントガード)が怪我で離脱するなど、前半は黒星が多くなったものの、12月には——このシーズンに優勝する——琉球ゴールデンキングスに勝利し、第2節で2連敗を喫した秋田ノーザンハピネッツや京都ハンナリーズといった強豪チームからも白星を獲得。参加初年度にして、プレーオフ進出を決めたのだった。

上昇と停滞

 次のシーズン(2014‐15)も順位は変わらず、東地区6位だったが、総観客動員数は前年比で2541人増、1試合平均も1735人と数字を積み増し、プレーオフでは東地区3位の仙台89ERSを下して、セミファイナルに進出を決めた(岩手に敗退)。

 ブースタークラブの会員数も3000人を突破し、その構成比率のトップ3も青森市在住者、弘前市在住者、八戸市在住者がバランス良く占めるなど、多くの点において、青森スポーツクリエイションの目論見は翌年には達せられるかに見えた。その唯一にして最大の誤算が、勝てないこと。優勝できなくても、魅力的なチーム作りは有り得るが、上位争いにも食い込めないとなると、話は別だ。

 執行部は、三顧の礼で迎えた棟方公寿との契約を更新せず、新たなヘッドコーチに佐藤信長を招聘し、3シーズン目に挑んだ。しかし結果はついてこなかった。順位をふたつ下げて、東地区8位。1試合平均観客動員数も、前年を割ることになってしまった。

bjリーグの終焉

 こうした状況の中、ひたひたと近づいてきたのがbjリーグの終わりの日だった。NBL(旧JBL)の遅々として進まないプロ化に業を煮やして生まれたbjリーグは、当初12億円もの資本金を集め、各チームに気前よく分配金をシェアしたが、参加するチームが増えても、リーグ全体のレベルが劇的に向上することがなかったため、次第にスポンサー離れが広がった。

 さらに東日本大震災を挟んだ2012年には、トップチームの千葉ジェッツがbjリーグを脱退し、NBLに移籍してしまう。当時のサラリーキャップはNBLが1億5000万円、bjリーグが6800万円*。「可能性」が「序列」に反撃を喰らった瞬間だった。

*大島和人『B.LEAGUE誕生』(日経BP)を参照.

 そして、まったく同じ意味合いにおいて、2012年の段階で、日本のプロリーグがNBLしか存在していなかったとすれば、青森ワッツが生まれることもなかっただろう。そもそも、ひとつの国で、ひとつのプロスポーツに、大きくルールの異なるふたつのプロリーグが存在するのは、異常事態なのだから。

黒船の要求

 ちょうど青森ワッツが2シーズン目を控えた2014年の夏、東京・五反田のマンションの一室で、何度も膝詰めの会議がおこなわれていた。出席者は日本協会の深津会長、NBLの丸尾理事長、bjリーグの河内コミッショナー。日本バスケットボール界の中央競技団体の長と、ふたつのリーグのトップ。つまり、最高権力者たちだ。それに加えて仙台89ers、千葉ジェッツ、トヨタ自動車、琉球ゴールデンキングスの運営会社の社長(トヨタのみバスケ部長)の姿もあった*。 彼らは、その春に来日したパトリック・バウマン事務総長(国際バスケットボール連盟/以下、FIBA)の要求に応えるべく、参集していたのである。

*大島和人『B.LEAGUE誕生』(日経BP)を参照.

 バウマン事務総長の要求はシンプルだった。NBLとbjリーグに分裂したままの男子トップリーグを統合し、中央競技団体の管轄下におくこと。そして、ひとつになったトップリーグの試合は、世界共通の競技ルールに基づいて実施すること。バウマンは、日本側の回答期限を10月末に区切っていた。

 だが、夏に繰り返しおこなわれた会議では合意形成に至らず、回答期限の直前に日本協会の深津が辞任。11月25日、FIBAは日本のバスケットボール界(中央競技団体としての日本協会)に対して「FIBA加盟国としての資格停止」を通知した。日本代表チームが、すべての国際試合に参加できなくなった瞬間である。すでに東京五輪を勝ち取っていた政府は、FIBAの決定に青ざめた。

 そして翌15年、事態を打開するために設置されたタスクフォースのトップに「剛腕」が招聘された。Jリーグを成功に導き、サッカーを巨大産業に育て上げた川淵三郎である。

WATS GOIN' ON〔Vol. 6〕につづく

VictorySportsNews編集部