優れた監督と選手の関係 名将清宮克幸監督は何が優れているのか②

環境に合わせる力

 清宮監督は、「これは要らない」と決断できる指導者であったが、それは練習方法だけに限った話ではない。後藤は当時を振り返り、「清宮監督は環境に合わせて戦略を変えられる人でした。実際、大学1年の時と大学4年の時のチームの戦略は全く違っていました。」と語る。チームメンバーや対戦相手、ラグビーの潮流など、チームの状況と周囲の環境は刻一刻と変化する。優勝経験や伝統、文化など、すでに確立されたものがあればあるほどそれに固執してしまうものだが、清宮監督は全くそうではなかった。

 清宮監督就任時、早稲田大学ラグビー部は、創部以来約80年にわたり、東伏見にある土のグラウンドを練習場としていた。清宮監督自身をはじめ、早稲田大学ラグビー部80年の伝統が詰まった練習場である。しかし、選手からすると土のグラウンドで試合をすることはほぼなく、練習環境として「整っている」と言える場所ではなかった。

 清宮監督は「ここで練習していても勝てない」と考え、OBの反対を押し切り、就任2年目で練習場を上井草に移転。芝生のグラウンドや寮、スポーツジムなどの設備を整え、より練習に適した環境を整えた。「いま勝つために何をすべきか」。これを徹底しているからこそ、伝統や文化に固執せず、環境に合わせた最適解から、何を実行すべきかを導きだせたのだ。

 このほかにももちろん根性練は完全に排除された。当時、多くの部活動で慣例になっていた、上級生が下級生を走らせる、というようなこともなくなった。理由はいずれも「勝つために必要ではないから」。これまでやってきたから今年も、という考えを清宮監督は持ち合わせていなかったのだろう。

数値による管理能力

 清宮監督の指導の特徴として、パフォーマンスの数値化が挙げられる。「日々の練習でもミスの回数やタックルの成功率などを数値化されていました。パフォーマンスが悪いとBチームに降格といった形で管理されていたので、練習にも緊張感がありましたね」と後藤は語る。もちろん、降格条件としてだけでなく、昇格の条件としても数値が用いられていた。「選手としては(ライバルが)上のチームに上がる理由もわかるし、どうやったら上がれるかも明確。逆に自分が基準に足りていない部分も明確になっていたので、納得感はありました」

 また、一方で、清宮監督の求める能力を有していない選手は、特段評価されていなかったという。必要な選手像が明確だからこそ、条件を満たしているのかどうか、という評価が主軸になっていたのだ。

「もちろん、清宮監督の方針にあわず、試合に出る機会が少なくなった選手はいました。しかし、その中でプロで活躍した選手は私の知る限りいません」。清宮監督は、表面的にラグビーがうまいだけで、上のカテゴリー、つまりプロで通用しないということをその時点で見抜いていたのだろう。「逆に清宮監督の指導によって才能が開花した選手は多くいましたね」。例えば矢富選手、五郎丸選手、大戸選手、三村選手、日野選手はいずれも日本代表に選出された。「全てが清宮監督の指導のお陰、ということはないと思いますが、少なくとも一因にはなっていると思いますね」

 後藤は清宮監督の指導を次のように語る。「もちろん、その世代のメンバーに合わせて戦略を考えたりもしていたと思います。ただ、はじめに選手ありきで考えるのではなく、清宮監督の勝つためのビジョンに合致しているか、というのは1つの基準になっていましたね。その基準も『足の速さ』や『タックル成功率』といった形で数値化されていました」

清宮監督はカリスマなのか?

 清宮監督の指導はカリスマ性ありきなのだろうか? もちろん彼自身のキャラクターや指導力、競技力は〈個人〉として突出しているが、そのコーチングの最大の特徴は属人的ではない「5つの要素」に尽くされているように思われる。

① 構成要素の分解。
② 目標に向かう最短経路の考察。
③ 環境の変化を捉える。
④ 数値化し、客観的視点で考える。
⑤ 必要な打ち手と不要な打ち手の決定。

 これらはいずれも、個々人の生まれ持っての才能に左右される尺度ではなく、後天的に誰でも身に着けられる考え方だ。後藤は、清宮監督の指導に触れ、強い憧れを抱いたという。「清宮監督は全てにおいて重要なポイントを見つけ、そこにアプローチするのが上手でした。だから練習メニューや戦略の改革もガッチリ嵌まり、就任2年目で大学選手権優勝という結果を残せたのでしょう。私も清宮監督のように、最もクリティカルなポイントを見つけ、そこに効果的にアプローチする、そんな技術を身に付けたい、と強く思わされました」

 そして大学卒業と同時に、後藤は日本代表に選出された。恩師を超えるため、後藤は大学卒業後、敢えて清宮の古巣サントリーラグビー部(現・東京サントリーサンゴリアス)ではなく、神戸製鋼ラグビー部(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に進んだ。入社1年目でレギュラー、3年目で史上最年少キャプテンを務め、順風満帆に見えた彼のラグビー人生だが、後藤は28歳の若さで選手生活の幕を閉じることとなる。

第5回につづく【スポーツとマネジメント①】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由【スポーツとマネジメント②】元ラグビー日本代表・後藤翔太が、チームを日本一へ導く名コーチに変身できた理由【スポーツとマネジメント③】3つのチームを日本一へ導いたあらゆる組織に通ずるマネジメント原理とは

三代侑平

筑波大学、筑波大学大学院を卒業後、新卒で私立高校教諭として入社。担任をはじめ様々な教育活動に従事。識学入社後は、マーケティング部にてウェビナーや各種広告運用を担当。現在は、社内外両面の広報として、メディアリレーションや講演会活動、記事執筆など幅広い業務に携わる。