選手人生で最大の栄光と最大の挫折 見えてきた「いいリーダー」の姿
華々しい社会人スタート
早稲田大学卒業と同時に、後藤はラグビーの日本代表に選出された。高校3年生の時に世代別日本代表候補に名前が挙がることはあったが、そのときは候補止まりだった。後藤自身もこの時ばかりは「大学4年間でこれまでライバルだった人たちを全員抜いた」という実感が湧き、素直に嬉しかったという。
その後、後藤は神戸製鋼ラグビー部に入部。神戸製鋼でも頭角を現し、1年目でレギュラーに定着。3年目には史上最年少でキャプテンを務めた。
違和感
後藤が神戸製鋼に決めたのには恩師の影響が大きい。後藤は大学時代の恩師、清宮監督に強い憧れを抱いていた。「自分もいつか清宮監督みたいになりたい。ゆくゆくは超えたい。」恩師を超えるために清宮の古巣サントリーではなく、敢えて違う道を進むことを決めた。実は、後藤にはサントリーからもオファーがあったのだ。学生時代には合同練習などもさせてもらっていたため、強い憧れはあったものの良い意味でも悪い意味でも、想像できてしまう環境でもあった。そこで後藤は歴史ある神戸製鋼に入社を決め、新天地に挑んだ。
神戸製鋼ラグビー部は1928年創部。全国社会人大会7連覇という偉業も達成したまさにラグビー界の古豪である。才能豊かな選手が多く、日本代表が何人も在籍している、レベルの高い環境であった。しかしそこで、後藤は若干の違和感を覚えた。
神戸製鋼は歴史もあり、選手達には煌びやかな才能があった。よって、その練習スタイルは選手たちの豊かな才能を前提としていた。例えば監督から「判断しろ!」という指示を受けた際、選手はそれぞれが最良の選択を導き出し、かつ、その選択を一致させる。才能のある選手達が長年同じチームでプレーし続ければ可能になるが、後藤にとってはあまりにも難易度が高すぎる要求だった。誰がどのように判断するのか?この状況での最良の選択とは、何を基準にどのような情報処理を下し導き出せばいいのか?瞬時に判断し、チームの求める選択をするのは自分自身には不可能だと思った。
早稲田大学時代は清宮監督が「勝つために必要なものはこれ」と明確に提示してくれたため、それを達成するために努力し、考えていくという指導スタイルだった。そのため、全選手が同じ目標に向かって突き進んだ結果、全国制覇も成し遂げた。しかし、神戸製鋼では、指示が抽象的だったため、各々の感覚に頼らざるを得ない戦略設計になっており、バラバラな方向をむいている感覚があった、と後藤は語る。「神戸製鋼の選手は確かにすごい。でもこの才能がバラバラの方向に向いてしまっているのはもったいない。」
また、全国社会人大会7連覇という偉業にも違和感を感じていた。後藤が入社した当時、チームの戦略の中心は7連覇によってつくられた価値観が軸となっていた。「たしかに7連覇はすごい。だけど、いま勝つためには〈いま〉を見て戦略は組み立て直すべきじゃないのか?」。後藤は過去の栄光が、チームにとって逆に足枷となっているように感じていた。
史上最年少キャプテンを襲った悲劇
後藤は神戸製鋼入社後、1年目でレギュラーとなった。日本代表にも選出され、〈後藤翔太〉という個人は確実にレベルアップしているのを感じていたが、チームとしての成績を残せずにいた。そんな折、3年目に史上最年少でキャプテンに任命された。「キャプテンとして、必ずこのチームを日本一にする」。後藤は、強い決意を胸にチームの意識改革に励んだ。
まず後藤はキャプテンとして、「もっと練習しろ」「酒は控えろ」「もっとラグビーのことを考えろ」など、勝利に直結する行動をするよう、メンバーに強く訴え続けた。また、コーチ陣に対しては、勝つために必要な合理的な戦略を提示するよう求めた。さらに、価値基準や判断基準の統一を求め、効率的なプレーを限定し落とし込むように求めた。
しかし、後藤を悲劇が襲った。2006年、日本代表として臨んだワールドカップ予選の試合中、後藤は背後からタックルを受け、途中交代。それどころか、全く身体が動かなくなり、数日間は病院のベッドの上で過ごすことになった。脊髄損傷だった。
痛みと麻痺は半年以上続いていたが「キャプテンとしてどうしてもチームで日本一になりたい。」という気持ちから、手術をせずに復帰することを選んだ。しかし、激しいコンタクトを重ねることで、さらに症状は悪化していった。
復帰から1年。後藤には、手術に踏み切る以外の選択肢がなかった。手術を受け、ラグビーができない時間が増えれば増えるほど、ラグビーをしたい、日本一になりたい、という想いは一層強くなっていく。そして、その想いゆえに、事件が起きた。
確執。そして引退
神戸製鋼に入って5年目、後藤はキャプテンを降りていた。そんなある日、リハビリ中で出場しなかった練習試合、神戸製鋼が数点差で負けたことがあった。その試合後のミーティング中にコーチから「お前たちには気合が足りない。だから僅差で負けたんだ」と指摘された。これに対して後藤は「試合に出場したメンバー、みんな気合は入っていたと思います。でも本質的な勝てない原因はもっと他のところにあるのではないでしょうか」とその場で反論したという。
「元キャプテンでしたし、試合に出ていない自分だからこそ出場選手を庇おうとする気持ちはありました。また、気合いだけが負けた原因と思えていなかったのも事実です。このままでは何も変わらず、勝てないまま。今後の戦略や練習を見直してもらえるのではないか、と思っての発言でした」
先輩からは「コーチに逆らうなんて何様のつもりだ」とひどく怒られたそうだ。謝りにいった後藤に、コーチからは「お前の気持ちもよくわかる。気にしなくていい。」と言ってもらえたが、結果そこから2年間試合に出場することは叶わなかった。
「今でも理屈としては正しいことを言ったと思っています。ですが、伝え方は完全に間違えていました。試合に出られなくなったのは、もちろん、自分の実力不足もあったでしょうが、試合に出られなくなると腐ってしまい、チーム内での振る舞いも幼稚なものになってしまっていたな、と反省しています」
当時ラグビーの社会人リーグには〈リリースレター〉というルールがあり、〈前所属先の会社が同意しない限り、移籍しても1年間は試合に出場できない〉と制約が設けられていた。状況を知って「リリースレターが出るなら、うちに来ないか」と声をかけてくれるチームもいくつかあったが、結局それもうまく進展しなかった。
そして「現役引退」の選択肢だけが残った。
いいリーダーになりたい
それまでの選手生活を通して後藤の中で「良いリーダーになりたい」という想いが高まっていった。明確な基準がないからこそ、自分で達成できているのか不安になる。当の施策が目標につながっているのか自分の中でイメージできないから不安になる。
こんなとき、どうすればいいのか。とりあえず、「いいからやれ」と励ませば、それで事態が好転するのか。後藤は言う。
「『いいからやれ』というのは間違いだとは思っていません。ただ先が見えていない状態で『いいからやれ』は辛い。目標に到達するまでの道筋を整理して分解して、リーダーがやることを全てやった時に、初めて『いいからやれ』が出てくると思っています。選手や部下の方は、成果につながった経験がないと『これを突き詰めていったらどうなる』というのが見えていません。だからこそ、リーダーは分解して、説明して、可能な限りイメージできる段階まで落とし込んであげる。それでも納得できない選手や部下には『いいからやれ』でやらせるものだと思っています。」
引退後、不完全燃焼状態の後藤に刺激的なオファーが届いた。追手門学院大学から、女子ラグビー部の創設と監督就任を打診されたのだ。