たった2名の部員
選手引退後、後藤は会社員業務に勤しんでいた。そんな折、「女子ラグビー部を新設するので、その監督として来てくれないか」とオファーが届いた。
当時ラグビーを引退し約2年が経過しており、ラグビーには全力で打ち込んでいたものの中途半端な終わり方をしていたため、後藤の中に蟠りが残っていた。
そんな中、自分自身がまだラグビーに関われるチャンスがあるということに対して素直に喜ばしく感じていた。
当時は、なでしこジャパンがワールドカップで世界一になったタイミングであった。同時期に7人制ラグビー(男女)もオリンピックの正式種目になったため、“女子ラグビー”にもスポットライトが当たる可能性が十分にあった。
「結果を出せば、評価をされる環境がある」。そう感じた後藤は会社を辞め、監督としてのキャリアを歩むことになった。
しかし創部当初、追手門学院大学女子ラグビー部の部員はわずか2名でどちらも未経験者。1人目はバスケ経験者であり、新しいことを追い求め自分の輝ける場所を見つけたいと自ら入部を希望した。2人目は後藤が選手としての才を感じていた選手であり、高校卒業と同時にオファーを掛けた。
後藤は2人のモチベーションを維持するために、細かな個別対応に取り組んだ。大学時代の清宮監督の指導を念頭に置いていたのだという。
「当時はミスをしたらBチームに降格させられる、日本代表になれなかったら嫌だ…といった恐怖をエネルギーにしていました。そのため、自分が指導するならば恐怖を使わずにチームを強くしたい、と思っていました」。部員二人に、まずはラグビーの楽しさを伝えたい。そう思っての行動だったが、結果としてこれは大きな間違いに繋がった。たった2人とはいえ、平等に接することは出来なかったのだ。「なんであっちには聞いてくれるのに、私には聞いてくれないんですか?」「このままなら部活辞めます!」。それぞれの想いに合わせる難しさを感じつつも、解決策もわからない。たった2名とはいえ、次第に統率が取れなくなっていった。
発泡スチロールにメッキを塗ったようなチーム
監督2年目。新入部員も加わり、いよいよ試合ができる状態になった。そもそも、女子ラグビーの経験者は、日本にそう多くない。後藤はそれでも入部を促せるように「楽しみながら日本一が目指せるよ」と全国を回りながら声をかけていた。
しかし、チームは早々に収拾がつかない状態となった。後藤は縛らず自由にやらせたい、という思いからルールや厳しい指導を極力減らした。その結果、パーソナルトレーナのような”監督が個人に合わせる”トレーニングになっていた。
監督が個に合わせすぎることで、チームとしての団結力が生まれずにいた。
監督をはじめるまで、後藤は自分の指導力に自信があった。「選手には僕のように辛い思いをさせず、監督の戦略で勝たせる。勝つことでさらにラグビーの楽しさを知ってもらいたい」と考えていた。事実、入部した選手たちは皆、楽しそうにラグビーをしていた。しかし、試合にはほとんど勝てなかった。
当時を振り返り後藤は次のように語る。「一見、強そうに見えるが選手の本質的な能力が備わっておらず、戦術のみの上っ面の強さしかない。まるで発泡スチロールにメッキをぬったようなチームだった」
たどり着いた〈怪しいマネジメント〉
チーム作りを間違えていたのだろうか。マネジメントに悩んでいた折、後藤は、大学の先輩であり、コンサルティング会社の代表を務める安藤広大に連絡をした。すると安藤から、「チームの目的とルールをはっきりと定めろ。それが監督の役目だ」と強く指摘された。
最初は抵抗感があり、後藤は「ルールで縛るという考え方は好きではありません」と生意気にも言い返した。
なぜなら、後藤自身がやっていたラグビーは辛い経験ばかりで楽しいといった感情がなく、その厳しさを選手に味合わせることに抵抗を感じていたためだ。
しかし、安藤の答えは「ルール無しでは強い組織はできない」。
自分の考えを否定された。
「勝たなければ何も始まらない」と思った後藤は安藤からのアドバイス通りに誰でも守れる基本的なルール(挨拶や整理整頓)を設定し、徹底的に順守させることを実践してみることにした。
選手の変化
後藤は、まず〈日本一〉というチーム目標と、あいさつや用具の置き方をはじめとしたルールを設定した。それらを必ず守るようにと選手に命じた。また、勝つために必要な能力も明確に数値化した。組織に厳しさを求めることで、退部する選手が出る懸念もあったが、覚悟の上だった。
実際、選手の中には「なんで急にそんなことをするんですか?」「今まで監督は優しかったのに、ちょっと厳しくなってきたよね。」と不満を漏らす選手もいたという。
しかし、最終的には全員付いてきてくれた。選手目線でみても「レギュラーになるために何が必要なのか」が数値化により明確になったからだ。何をどれくらい頑張ればレギュラーになれるのか。また、なぜその要素が重要視されているのか。
全てが、勝つための戦略に基づいていることを選手に理解してもらった。徐々に選手たちは練習に主体的に取り組むようになり、強いチームへと変貌していった。
勝利の秘訣
選手が変化を遂げた結果、追手門学院大学女子ラグビー部は《women’s college sevens》《Japan sevens》の両大会で日本一に、兼任していた追手門学院高校女子ラグビー部は《Sanix world youth》(ユース世界選手権)にて創部3年にして世界一に輝いた。
後藤は当時を振り返り、勝てるようになった理由を分析した。「一言で表せば、PDCAを早く回せるようになったからです。組織が設定されたルールに基づいて動くことに慣れていると、私が『こうするぞ』と言った際、選手のリアクションが早くなります。失敗したときにも私がすぐに改め、選手は即反応できるようになりました。また、戦略やルールを守ってプレーしようとする以上、選手に失敗の責任は一切ないと教えていますから、選手は失敗を恐れず、伸び伸びプレーできます。加えて、指示を守る文化ができ、切り替えが早くなったことで、私の知識と経験を一層活かせるようになりました」
当時、後藤自身も一層、指導に熱が入っていた。グラウンドに立つ時だけでなく、戦略や練習メニューを作成するために、毎日試行錯誤していたという。練習終了と同時にその日の選手のプレー映像を確認し、次回の練習に向けて修正点を明確にしつつ、1週間後、1カ月後、半年後のチームのイメージを持ちながら毎日改善を繰り返す。勝つために何をすべきか、徹底的に突き詰めたからこそ、日本一になれたのだ。
辿り着いて見えた恩師の背中
これは奇しくも後藤の恩師、清宮監督が早稲田大学監督時代に採った手法と同じである。清宮監督も勝つための要素を分解し、それを日々の練習に落とし込んでいった。また、練習でもミスの回数やタックルの成功率などを数値化し、チーム昇格・降格の判断基準として用いていた。
「清宮監督の指導は確かに厳しく、辛かったです。特にミスの回数で降格が決まるというのは恐怖でした。ですが、あのお陰で日々の練習から集中して取り組むことができましたし、昇格・降格も納得がいきました。もちろんそれらが全て勝利に直結している、という実感があったのも辛さを乗り越えられたポイントだと思います。組織は筋トレと同じで、軽い負荷ばかりかけていても強くならない。かといって過負荷では壊れてしまう。バランスをみて適切な負荷をかけるのもリーダーに必要なことだと思います」