各球団に存在する「ミスター」

プロ野球(NPB)のセ・リーグでは、広島カープが3連覇を達成した。他を寄せつけない強さを発揮したが、ファンが過去2年との大きな違いを感じる部分があるとすれば、大ベテランの新井貴浩が今シーズン限りでの現役引退を表明していることだろう。地元・広島の出身で、1998年にドラフト6位でカープに入団し、2008年にはFAで阪神タイガースに移籍。しかし2015年にカープに復帰すると、翌2016年には2000本安打、300本塁打を達成して優勝にも貢献するなど、中心選手として長年にわたって活躍した。阪神移籍の際にも“カープ愛”を隠そうとしなかった彼に対してはファンも強い愛情を示しており、打席に立つたびに大歓声が沸き上がる。一部では“二代目ミスター赤ヘル”、“ミスター新井”とも呼ばれている。

“二代目”ということは、当然ながら初代も存在する。元祖“ミスター赤ヘル” とは、1970年代、80年代に活躍した山本浩二氏のことだ。新井同様、地元の広島出身で、1968年のドラフト1位でカープに入団。引退まで18年間カープ一筋のキャリアを送り、通算536本塁打、2339安打など、数々の記録を打ち立てた。現役時代に長らく背負った背番号8は、“鉄人”衣笠祥雄氏の3、黒田博樹氏の15とともにカープの永久欠番となっている。

“ミスター”と呼ばれる選手は各球団に存在する。地元出身であること、長年にわたって在籍していること、顕著な成績を残していること、ファンに深く愛されていることなど、条件はいろいろあるだろうが、明確な定義はない。ファンの間でいつしかそう呼ばれるようになり、それが定着していくものと考えられる。

日本のプロ野球界で最も有名な“ミスター”は、やはり“ミスター・ジャイアンツ”長嶋茂雄氏だろう。1958年に立教大学から読売ジャイアンツに入団し、1年目から「3番・サード」で活躍。後に通算868本塁打の世界記録を打ち立てる王貞治氏との“ON”で中軸を担い、1965年からの日本シリーズ9連覇などを経験した。現役時代の背番号3は当然ながら永久欠番となり、引退後は監督として松井秀喜氏を育て、2度の日本一も経験。現在は“終身名誉監督”となっている。天覧試合での本塁打や金田正一氏、村山実氏、星野仙一氏ら名投手とのライバル対決、引退試合での「我が巨人軍は永久に不滅です」の名言、サードでのアグレッシブな守備、そして常人離れした数々のエピソードなど、記録にも記憶にも残る人物であるがゆえに、“ミスタージャイアンツ”だけではなく“ミスタープロ野球”とも呼ばれている。

NPB唯一の1選手のみがつけた永久欠番

ジャイアンツのライバル、阪神タイガースの“ミスター”の称号は、複数の選手に与えられている。初代は球団創設時にチームを支えた藤村富美男氏。1936年に行われた大阪タイガース(当時)の最初の公式戦には投手として先発して初勝利を挙げ、その後は野手に転向。戦後は三塁手兼投手となり、また選手兼任監督にもなり、“物干し竿”と呼ばれる長いバットを振り回して大活躍した。打者として通算打率3割、投手として通算34勝の成績を残し、1958年に現役を引退。タイガースの背番号10は永久欠番となったが、「1選手のみがつけた永久欠番」は、日本プロ野球界ではタイガースの10番だけである。

タイガースでは他に、村山氏、田淵幸一氏、掛布雅之氏が“ミスター・タイガース”と呼ばれている。村山氏は藤村氏の引退試合となった1959年3月のオープン戦でプロ初登板を果たし、1年目からエースとして活躍。1970年には選手兼監督となって通算200勝を挙げ、戦後唯一の防御率0点台となる0.98を達成した。体は小さかったが“ザトペック投法”と呼ばれる豪快なピッチングフォームが特徴で、背番号11は永久欠番になっている。田淵氏は1968年のドラフト1位で法政大学から阪神に入団し、長打を打てる捕手として1年目から活躍。1975年には43本塁打を放ち、それまで13年連続でホームラン王に輝いていた王貞治氏からタイトルを奪った。1978年オフに西武ライオンズに電撃的にトレードされたため、彼のことを“ミスター・タイガース”とは認めない向きもあったが、2002年に打撃コーチとして糾弾に復帰したため、“ミスター”に復帰した。掛布氏は1973年のドラフト6位で阪神に入団。田淵氏が西武に移籍した後に主砲として台頭し、1985年にはバース氏、岡田彰布氏とのクリーンアップでセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。ジャイアンツ戦で見せた“バックスクリーン3連発”は、今もプロ野球ファンの間で語り草となっている。

中日ドラゴンズには3人の“ミスター・ドラゴンズ”がいる。西沢道夫氏、高木守道氏、立浪和義氏だ。西沢氏は戦前の選手で、14歳でプロ入りし、史上最年少の16歳4日で公式戦初出場を果たした名選手。当初は投手だったが、太平洋戦争への応召で肩を痛め、戦後は打者に転向。投手時代には年間20勝、打者時代には年間40本塁打を達成した。高木氏は俊足、攻守を持ち味とし、“史上最高の二塁手”とも評されるなど守備の名手として活躍した。1978年には通算2000本安打を達成し、1980年に現役を引退。その後、2度にわたって監督も務めた。立浪氏はPL学園高校で甲子園春夏連覇を達成し、1988年のドラフト1位で中日に入団。高卒ルーキーながら開幕戦に遊撃手として先発出場し、そのままレギュラーに定着。二塁手や三塁手、外野手としてもプレーし、22年間の在籍で通算2480安打を記録。487二塁打はNPB記録となっている。

定義の難しいベイスターズの「ミスター」

ヤクルトスワローズの“ミスター”としては、若松勉氏の名前が挙がる。1970年のドラフト3位で当時のヤクルトアトムズに入団すると、“怪童”こと中西太コーチの指導でバッティングセンスが開花。42歳で引退するまでヤクルト一筋のキャリアを歩み、生涯打率.31918はNPBの日本人歴代最高記録だ。1999年からは監督を務め、2001年には日本一に。リーグ優勝の際には、インタビューで「ファンの皆様、本当に……おめでとうございます」と語るなど、人柄の良さも話題となった。ちなみに、彼が現役2年目からつけた背番号1はその後、スワローズの野手のエースナンバーとなり、池山隆寛氏や岩村明憲氏、青木宣親、山田哲人ら生え抜きのスラッガーが代々、着用している。

横浜DeNAベイスターズの“ミスター”については定義が難しい。大洋ホエールズ、横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズなど、球団名が何度も変わっており、現在の「ベイスターズ」も25年の歴史しかない。ホエールズ時代に内野手として活躍し、1980年に2000本安打を達成した松原誠氏は“ミスター・ホエールズ”と呼ばれているが、“ミスター・ベイスターズ”として誰もが認める選手はまだ出てきていないのが実情だろう。現在の4番、筒香嘉智は“ミスター・ベイスターズ”になり得る可能性が高い選手なので、ファンはこのままベイスターズでキャリアを全うしてほしいと強く願っていることだろう。

今回はNPBセ・リーグの“ミスター”を紹介した。パ・リーグ6球団にも“ミスター”と呼ばれる選手はいるし、他の競技にも“ミスター”は存在する。機会を改めて紹介していきたい。

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池田敏明

大学院でインカ帝国史を専攻していたが、”師匠” の敷いたレールに果てしない魅力を感じ転身。専門誌で編集を務めた後にフリーランスとなり、ライター、エディター、スベイ ン語の通訳&翻訳家、カメラマンと幅広くこなす。